山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第3回>

2015-11-16 05:54:44 | くるま旅くらしの話

【今日(11/16)の予定】 

  道の駅:信州蔦木宿 →(R20他)→ しだれ栗森林公園 →(県道・R153・R361・R152)→ 道の駅:南アルプス村長谷(泊)

 

【昨日(11/15)のレポート】   

<行程>

 道の駅:花かげの郷まきおか →(R140)→ 恵林寺参詣 →(R140他)→ 甲斐武田神社参拝 →(甲府市内経由・R20)→ 道の駅:はくしゅう →(R20)→ 道の駅:信州蔦木宿(泊) 走行65km

 <レポート>

天気:雨のち晴れ

今日も基本的には目的地に向かっての移動日である。泊りは温泉のある道の駅:信州蔦木宿と決めているので、そのまま直行すると午前中には着いてしまうことになるので、途中にある恵林寺と甲斐武田神社に参拝することにした。当初は久しぶりに昇仙峡を訪ねて見ようと考えていたのだが、今は紅葉のシーズンであり、今日は日曜日でもあるのでかなり混雑するのではないかと思い止めることにしたのだった。何しろSUN号は図体が少しばかりでかいので、駐車場での扱いがやりにくいのである。苦労するくらいなら行かない方がずっとましなのだ。こちとらは老人なのである。

花かげの郷まきおかの道の駅の一夜は快適だった。旅の初日とあって、200km近くも走っているので、疲れもあってTVも見ないままに夕食後はあっという間の爆睡だった。1時半に目覚めた時は時々雨の音がしていたが、もう一度眠りに就いて、起き出したのは5時半過ぎだった。雨は止んでいるようだったが、外を見ると霧がかかっていて、青空には程遠い空模様だった。6時過ぎに外を少し歩くことにして、近くにある丘が公園になっているので、上の方へ登って見ることにした。ここは富士山を遠望できる絶好の場所でもある。長い階段を上ってそこにつくられた東屋からの眺望は、曇りながらに素晴らしかった。というのも遠くの下界の人家を包んで雲海が白くたなびき、その彼方に頭を雲に突っ込んだ富士山がしっかりと見えたのである。これが晴れているならば、すっきりした形の富士山が見られたものをとちょっぴり残念だったが、この雲海の眺望もなかなかのものだった。

     

道の駅に隣接する公園の丘の上からの朝の眺望。雲海のたなびく彼方に富士の姿が確認できる。頂上は雲の中だけど、久しぶりの富士はやっぱり存在感がある。

9時過ぎに出発する。恵林寺は直ぐ近くにあり、10分もからぬ内に到着する。恵林寺は武田信玄公との関わりが深く、戦国時代に織田軍の焼き打ちにあって戦死した、往時の住職の快川和尚が「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と詠んで、燃えたぎる火の中に最期を遂げたという話は有名である。ここには久しぶりの参詣だった。お寺に入る前に、近くにあるころ柿をつくっている農家の庭先を覗く。庭の干し柿専用の干場は勿論、家の周囲には余すところなくびっしりと赤い干し柿が吊るされていて、それはそれは壮観だった。ころ柿は信玄公の治世の時代に、地場産業として作るのを奨励され、やがてはこの地の名産となったとのこと。因みに、ころ柿の「ころ」というのは、製造のプロセスの中で、干した未完成の柿を、家の中でコロコロと移動させながら扱って、その後に又天日干しなどをする行程があるところから来たのだとのこと。これは相棒が仕込んできた知識の能書きである。自分はこの種の食べ物にはさほど興味はないのだが、相棒は盛んに完成品を欲しがっていた。しかしこの時期は無理で、帰りにもし寄れば手に入るのかもしれない。だけど今のところその気はない。

    

ころ柿作りの民家には所狭しと皮をむいた柿の大小のすだれが並んでいた。

そのあと、参道から境内に入って参詣する。大きなお寺で、落ち着いた雰囲気がある。朱色が鮮やかな山門は四脚門と呼ばれ、国の重文に指定されているとか。よく手入れされた庭が美しかった。本堂の前にある建物の前で、久しぶりに一人般若心経を唱えた。境内には同世代と思しき観光バスの人たちが参詣していて、グループでの戯れに花梨の実を投げ合ったりしていて、老人も小学生も旅の気分でやることは、大して変わらないようである。楽しいのは良いけど、物を投げるのは自粛した方が良いように思った。また、境内で2~3人がたばこを吸っているのを見て、相棒が灰皿はあるのかと見に行ったら、なんとちゃんとそこに置かれていたとのこと。重文の傍には火気厳禁という立て札が経っているのに、わざわざ灰皿を設置しているというのは珍しいと、相棒は写真を撮ったりしていた。なんか変だなと思うのは、自分たちだけでいいのだろうか。本堂は燃えても山門だけが残れば良いという発想なのだろうか。快川和尚が火の中で最期を遂げられたので、火は大目に見るということなのかな、などとひねくれた推理をして見たりした。

     

朱の色も鮮やかな恵林寺の四脚門。桃山時代に造られており、国の重要文化財に指定されている。

恵林寺の参詣を終えた後は、甲府市内にある甲斐武田神社を目指して出発。ここから先は地図も見ずに全くのナビ頼りである。武田神社は名前をかすかに聞いているだけで、まだ一度も訪ねたことがない場所である。30分ほどで着いたのだが、驚いたことに物凄い人と車なのである。これはどういうことかと人々の群れを見ていたら、皆きれいに着飾った子連れの人たちばかりなのである。あっ、そうか今日は七五三の本番の日だったと気づいた。最近の七五三は、前倒しの傾向にあり、11月以前でもお参りする人が結構多いのだが、今日は日曜でもあり絶好の参詣日だったのだ。駐車場の方へ行って見たが、とてもすんなり入れる状況ではない。これは諦めて他に行った方が良いと思いながら、Uターンして戻ると、途中で通行の整理をしていた人が、近くに1台分空いているというのである。狭いと困るなと思いながらそこへ行って見ると、SUN号でも何の差し支えないスペースだった。これから来られる七五三参りの方たちには悪いなと思ったけど、折角来た初めての場所なのだから、勘弁して貰おうと他へ行くのを止め、気持を仕切り直して参拝することにした。

人ごみの混雑の中を、階段を上って拝殿に参拝する。境内は見渡す限り七五三の家族連れで溢れていた。しばしそれらを観察して楽しむ。じいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん母ちゃん、それに着物を着た女の子、気取ったタキシ―ドの男の子、記念写真に大童の家族が入り乱れている。自分たちもあともう少しで孫たちの七五三に、同じようなスタイルで参加することになるのだろうか。皆、楽しそうで、嬉しそうな表情に溢れていた。

     

日曜日の、七五三の本番の日とあって、神社の境内のあちこちに記念写真と撮る家族の姿が溢れていた。

今まで知らなかったのだが、武田神社というのは、彼の武田信玄の居館のあった、躑躅が崎の館跡に建てられていたのだった。武田節を聴くたびに、あの文句の躑躅が崎というのは何処にあって、今はどうなっているのかなと思ったりしていたのだが、なんともまあ愚かなことよと内心己の知識と行動の貧しさを深く恥じたのだった。城や石垣よりも人こそが大事というその考えを具現している館とはどんなものだったのか、その後は館があった周辺を含めてぐるりと歩き回って状況を確かめた。確かに城はなかったのだろうけど、戦国時代を生き抜く為の城郭としての構造はしっかりしていて、いざ戦となれば攻めだけではなく守りに対する備えも十分に出来ていたのではないかと思った。急な来訪で何の下調べもしていなかったので、あとでじっくり調べて見ようと思った。

七五三の大群衆に別れを告げて、武田神社を出発したのは12時少し前だった。この後は道の駅:はくしゅうまで行き昼食とし、その後は水を汲んでペットボトルと水タンクを満たすことにしている。甲府市内を走りぬけて、郊外からR20に入り、しばらく走ると道の駅:はくしゅうに到着。はくしゅうは白州で、ここには南アルプスの甲斐駒ヶ岳辺りから流れてくる尾白川から来る名水があり、近くにはサントリーのウイスキー工場もある。道の駅には飲料水としての検定を受けた水を汲める水汲み場があり、通る時は必ず補給させて貰っている。13時少し前に着いて、先ずは昼食。相棒はおにぎりとみそ汁、自分はうどんを少々。その後自分は水汲みに専念し、車から水汲み場まで5Lのポリタンク二つを持って、6往復ほど水汲み場まで通う。水汲みに来られる人も多くて、時々超大量のペットボトルやポリタンを持参する人がいるので、結構時間がかかった。

その後はブログの原稿の作成に取り組む。泊りの予定の道の駅:信州蔦木宿の温泉は、18時から料金が少し安くなるので、それまではここで時間を使った方が良いという考えである。ブログの原稿書きが終わった後は、夕食のおかず作り。今夜は自分担当で、ジャガイモとニンジンと玉ねぎの煮物。あとは適当な余り物など。それで十分。老人なのだから。

気がつくと辺りは暗くなり始めていた。16時半近くになっており、とにかく蔦木宿まで行くことにした。直ぐに到着。ここはくるま旅の者には人気スポットの一つであり、何か問題もあったと聞いている。道の駅をキャンプ場と勘違いしている輩がおり、困った存在である。しかし、この国にはくるま社会が定着していてもくるま旅のインフラとしての宿泊場などは殆ど生まれてはおらず、行政もそのニーズに気づいていないのが現状だ。観光立国などと言って、国は中国や近隣アジア諸国からの観光客の呼び込みに力を入れているようだけど、もし押し掛けて来た彼らが車で旅をするようになったら、一体どう対応するというのか。現状のままでは、道の駅は押しかけて来た彼らの無法な振る舞いに、今どころではない大問題が発生するのは必定ではないか。そんなことを思いながら、問題にされている現在のキャンピングカー族の振る舞いを残念に思った。自分は旅車をキャンピングカーとは決して呼ばないことにしている。旅はキャンプではない。従って使用しているのはそのような目的の車ではなく、移動可能な家であり、それは欧米と同じように、モーターホームとかモーターハウスとか呼ぶべきだと思っている。

横道に逸れて余計なことを言ったけど、先ずは同じレベルのモーターホームが並ぶ駐車場に自分たちも入れて貰って、落ち着くことにした。相棒は先ず風呂に入りたいと出かけて行った。自分はまだ担当の夕食用の煮物を作っていないので、風呂は後にしてンものを開始する。その他、BSTVの設定などをして、料金の安くなる18時を待つ。それらの仕事が全て完了する頃に相棒が戻って来た。聞くと、時間が来ての料金割引は、消費税が値上げされた時点で取り止めとなり、今は無関係となっているとのこと。騙されたという感じだった。今年の佐渡行の際の喜多方の温泉では、以前よりももっと値引きが大きくなっていたのに、信州は少しケチなのかと思った。駐車場の脇に温泉に入った人が100万人を突破したという記念樹の様なものがあったけど、値引きとそれとは無関係なのかと思った。老人の勝手な僻みの理屈ではある。

車に戻り、ビールで乾杯して、ささやかな夕食を済ませて、寝床の中へ。長い夜が始まる。

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