山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大相撲に未来はあるのか?

2022-09-18 20:30:48 | 宵宵妄話

 自分は古くからの大相撲ファンで、栃若〈栃錦・初代若乃花〉時代以前からずっと相撲を見続けて来た。素っ裸で命をかけて勝負に立ち向かう人間の生きざまが何よりの魅力だった。他のスポーツには無い我が国独特の古来よりのスポーツであり、国技と言うのに全てが相応しいとは思わないけれども、他の武道とは異なる世界に類を見ない催しなのだと誇りを思いつつ観戦して来た。

 ところが最近は下らないショースポーツ化している感を拭えない。プロ野球やサッカーのJリーグと同様、現代に於いては大相撲はそれらと同類ではないと断言できるものではないのは明らかなのだが、それでも何か違う日本国の昔に繋がる精神がそこに伝わっていると思っていた。横綱をトップに大関・関脇・小結と言う実力をもとにした役力士のポジション設定をベースとして、全てが実力の発揮を前提に年6回もの勝負の場所が展開されるのを、固唾を飲んで期待しながら観戦しているのだが、大横綱白鵬が引退して以降現在の大相撲界は眼を覆うほど貧弱で魅力などすっ飛んでしまっている。

 今場所を見ていると、せめて頼みの横綱照ノ冨士は既に3敗を喫し、ひざの怪我の状況が懸念されながら辛うじて一人横綱の責めを果たそうと頑張っている。横綱であることを思えば、これを高く評価することはできないが、この人がダメになれば横綱無しの相撲界となってしまうのだから彼の踏ん張りに頼るしかない。それというのも、次の相撲界をひっぱる大関陣以下があまりにも不甲斐ないのは、一体どういうことなのか。横綱になれる人材が皆無というのはどういうことなのか。

 カド番大関がやたらに発生するのはどういうことなのか。今の大関の連中は上を目指すという意欲も気力も殆どなく、ただ安易にその地位を守ることに汲々としているかのごとくだ。怪我や病などの理由はあるにしても図体ばかりがでかくなって、その取り組み姿勢には我々観客の心を震わせるような厳しさは微塵も無いようだ。

 大関正代などと言う人物は今場所ならず先場所もその前も呆れかえるほど大関に相応しくない。何でこんな人を大関などとしているのか。大相撲を愚弄していると思えるような取り組みを続けている。カド番を抜ける為には全力を尽くすけど、それが済めば楽するだけと言うような相撲を取らせていていいのか?協会の運営姿勢や親方と言われる連中の取り組み姿勢にも絶大な疑問を感ずる。何で、こんな無様(ぶざま)な人を大関などとしているのか。呆れかえるばかりである。御獄海と言う人にも甘さを拭い得ない。正代よりはマシとしても厳しさは大関には値していない感じがする。隆景勝は頑張っている。辛うじて大関に相応しいといえるかもしれないけど、横綱にはすぐには届けまい。関脇以下については、何も言う気はしない。問題は横綱を生み出せない相撲界の体質にある。

 横綱大関を抜きにした予想外の人物が優勝してそれが面白いというのが2年も続いたら、大相撲は大相撲ではなくなってしまうのではないか。横綱や大関などという役力士のポジションなどどうでもいいということになってしまうのではないか。教会や親方連中は、現状を超深刻に受け止めて対処しなければならないのではないか。今は、そのような声や憤りの動きは殆ど感ぜられない。このままでは大相撲に未来はなくなってしまう。協会そのものがショースポーツに安んじて、金儲けを意図しているとしているのなら、大相撲なんぞよりもプロ野球やサッカーを見ている方が本物の人間ドラマが見られてずっとマシなように思っている。今,自分は大相撲のあり方に対して無性に腹が立っている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ゴルバチョフの未来はプーチ... | トップ | マイナンバーカードに思う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宵宵妄話」カテゴリの最新記事