山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 南岐阜・紀州の探訪の旅 レポート <第12回>

2015-11-25 03:00:50 | くるま旅くらしの話

【今日(11/25・水)の予定】 

 道の駅:おくとろ →(R169・R168)→ 熊野本宮参拝 → 大斎原散策 →(R168)→ 熊野速玉大社参拝 → 神倉神社参拝 →(R42)→ 道の駅:なち(泊)

 

【昨日(11/24・火)のレポート】

<行程>

 道の駅:熊野古道中辺路 →(R311)→ 清姫の墓参詣 →(R311)→ 滝尻王子参拝 → 道の駅:熊野古道中辺路 →(熊野古道散策:牛馬童子→箸折峠→近露王子参拝)→ 道の駅:熊野古道中辺路 →(R311・R168・R169)→ 道の駅:おくとろ(泊) 走行82km

<レポート>

天気:晴

昨日は終日雨降りが続いて、夜遅くなっても止む気配がなかったのだが、朝の3時頃になってようやく天井を叩く音が収まり静かになった。6時頃は霧の中だったが、しばらくすると青空が顔を出し、その後は晴れの良い天気となった。二日雨が続いたら、大幅に予定を変更しようと考えていたのだが、そんなことをしなくても済み、安堵する。今日は昨日の分を取り返すべく、来た道を戻って、幾つかの王子社などを参拝するつもりでいる。

昨夜はここに泊る車は皆無で、朝になっても、ずっと我々だけの世界が続いていた。この道の駅はトイレだけはウオシュレット付きで立派なのだが、水もゴミ箱も無くて、泊り向きではない。何よりも閉口したのは、駐車場が傾斜地で、寝床が少し傾いてしまっていることだった。しかし、一夜だけの、いわば仮眠の世界なので、これは我慢するしかない。最大のメリットは、マイナスイオンに溢れた空気に恵まれていたことだと思う。空が晴れるにつれて、気分も次第に晴れに向かっていた。

8時半に、先ずは昨日パスしてきた清姫の墓に詣でることにして出発する。20分ほど昨日来た道を戻って、墓に到着。娘道成寺の安珍と清姫の話は有名だが、実のところ詳しく筋書きを知っているわけではない。伝承としての筋書きが墓の近くに建てられた碑文に書かれていた。男女間の思いのやり取りは、今の世でも本質的には何も変わっていないようだ。今の世にも似たような事件は溢れているのではないか。清姫の気持ちや安珍の気持などを少し思ったりした。これは、当事者でないと、どんな行動に出るのかは難しい問題だなと思った。

その後は、境内にある水道から少し水を頂戴して、今朝の心配を解消する。次は熊野古道館という案内所に行って、古道散策の資料を求めることにして出発。直ぐに着いて、資料などを手に入れる。古道の紹介資料等は、皆歩きを前提として作成されており、車での来訪者をガイドするようなものは見当たらなかった。これは当り前で、やむを得ないことだと思う。自分で考えて王子社などを選ぶしかない。直ぐ近くに滝尻王子というのがあり、まずはここに参拝する。今回の王子社参拝では初めての参拝である。なかなか立派な所で、社等も建てられていた。その昔、熊野詣の貴族の人たちは、この場所で歌会などを開きながら、心の浄化を図っていたのかもしれない。参拝の後は、今朝までいた道の駅:熊野古道中辺路に戻る。

    

滝尻王子社の景観。多くの王子社は跡地となっているようだが、ここは小さいながらも社が建てられている。境内に後鳥羽上皇の歌を刻んだ碑があった。

この道の駅から800mほど古道を歩くと、牛馬童子という石像があるというので、それを見に行くことにした。熊野古道の初歩きに挑戦である。何といっても相棒の体力が問題であり、調子が悪い時はいつでも直ぐに戻るということでの出発だった。用意してきた西国三十三観音参詣の時に使用した杖を使いながら、ゆっくりと歩を進める。最初は急な感じがしたが、馴れてくるとそれほどでもなく、間もなく牛馬童子の小さな石像に到着する。どんなものなのかと思ったら、何と牛と馬と両方にまたがった童子の姿が刻まれていた。花山法皇のお姿に似た像だとか聞いたが、もうかなり時間を積んで来ているので、お顔の方はおぼろになっているように見えた。何枚か写真を撮った。すぐ脇に役(えん)の行者像というのがあって、熊野にも役の行者が係わっていたのを知った。山岳宗教の元祖として、自分は役の行者を密かに尊敬している。何だか嬉しい気持になった。

    

森の中を行く熊野古道の景観。平安時代の昔は、今のような杉や桧の森だったのか判らないけど、道そのものは同じような状態だったのかもしれない。

    

牛馬童子像。高さが30センチ足らずの小さな石像だが、それが却って品格を高めているように思えた。不思議な像である。

    

牛馬童子像の脇には、並んで役の行者の像が置かれていた。思ったよりも優しいお顔だったのに少し驚いた。

相棒の体調も大丈夫だというので、ここから500mほど先にあるという近露王子まで歩いてゆくことにする。途中から荒っぽい石畳の急坂の道となり、昨日の雨で滑り易くなているので、この下り道にはかなり神経を使った。思ったよりも長く感じたけど、間もなく近露王子跡に到着する。何故近露なのかということについて、相棒が疑問を感じていたようなので、先ほど手に入れた俄か知識で説明した。花山法皇がこの牛馬童子(その当時はなかったのであろう)のある峠を超える時、食事をするのに箸も持参出来ていなかったため、近くにある萱(=ススキ)を手折られて、箸とされた時に、萱の葉に着いた露を見ながら、「これは血なのか、それとも露なのか」とおっしゃったことから、この峠を箸折峠、この地を近露と呼ぶようになったとのこと。知ったかぶりなので、その時の花山法皇のお立場やお心の中のことまでは解らない。恐らく、恵まれない境遇だったに違いない。同じ皇族でも、その時代・環境によって複雑な事情がからんで、必ずしも頂点に立った立場での参詣は叶わなかったのであろうか。

    

近露王子の跡。社はなく、大きな石碑だけが建っていた。「血か、露か」が地名となるとは。驚きである。

その後はもう一度来た道を戻り、車に戻る。下りの厳しい個所が幾つかあったので、帰りの登りでは、相棒がバテはしないかと心配したのだが、思ったよりも元気で歩いてくれて、早く着けたのでよかった。その後は、道の駅で売っていた、めはり寿司などを買って来て、昼食休憩とする。この後どうするか考えたけど、今日はもうこれで王子社の参詣や古道歩きは終わりにして、温泉に入ってゆっくりすることに決める。調べた結果、まだ行っていない道の駅:おくとろに行って見ることにした。ここには隣接して温泉もある。早速出発する。

R168に出て、更に瀞峡に向かうR169を左折する。しばらく良い道が続いて、瀞峡の深い渓谷が見える景観を時々見ながらの走行だったのだが、あと5kmほどで道の駅に着くという辺りから、一変した細道となった。絶壁の下には、ダム湖の蒼い水が見える。慎重に運転を続け、一気に広い場所に出たら、そこが道の駅:おくとろだった。後で聞いた話では、途中の長いトンネルを含むきれいな道は、今年の9月に完成して使用開始となったとのこと。せめてこの道の駅まで広い道が通ずるようになれば、この秘境の地は観光地としてもっと発展するのになあ、と思った。

道の駅の脇には温泉もあって、何だか別世界の感じがした。相棒は今日の疲れがやってくる前に入浴を済ませることにして、直ぐに温泉に入りに行った。自分の方は、その間パソコンに向かう。1時間ほどして相棒が戻って来た。温泉は空いていて、ほぼ一人占めの状態だったとのことで、満足げだった。換わって、自分も風呂に行くことにした。600円也を払って中に入ると、男湯の方も誰も入っておらず、自分一人だけの入浴となった。かすかに硫黄の匂いのする、だけど刺激のない良いお湯だった。露天風呂もあり、眼下にダム湖の蒼い水を眺め、更に空を見上げると青空に白い雲が速く流れていた。良い気分である。欲張ればもっと古道を歩けたのだが、早めにここに来て良かったと思った。温泉を出て、ビールがないかと探したのだが、それは無駄だった。

車に戻る頃はもう日が暮れかけ始めていた。17時過ぎから少し早目の夕食となる。旅時の夕食は、家に居る時よりもかなり早い。それでも、もう10日以上が過ぎているので身体も旅くらしのリズムになれてきて、当たり前の日常となっている。19時からの鬼平犯科帳を見る時刻まで眠らずに行けるかが課題だが、どうにか辿りついて、20時の就寝となる。鬼平犯科帳は、もう何度も同じ筋書きを見ており、内容も全部承知しているのだが、池波先生の思いがどう表現されているかに興味があり、何度観ても飽きないのが不思議である。今日も満足しての一日が終わる。

コメント
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