山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

蒙古人の油断

2012-11-01 08:53:29 | 旅のエッセー

  佐賀県と長崎県の地形は意外とよく似ている。長崎県といえば、鎖国時代に海外に開かれた唯一の港としての存在を思い浮かべるが、隣接する佐賀県にはそのような港が無かったのかといえば、その地形、即ち半島と数多い島々からの成り立ちから見れば、アウトローの活躍する場が幾つかあったような気がしてならない。伊万里や有田の焼き物は内陸部での制作を思い起こさせるので、佐賀県の海のことは意外と忘れがちだけど、有明海は別として東シナ海に面した島嶼(とうしょ)域では、往古からの松浦党の跋扈(ばっこ)などから見ても、長崎に似た、外に向かって開かれた文化の匂いが漂ってくる感じがする。

 さて、その佐賀県との境を接する島の一つに鷹島というのがある。この島に橋が架かったのがいつなのか判らないけど、それほど昔のことではなさそうな感じがした。その鷹島肥前大橋は、瀬戸内のしまなみ海道の橋と比べても見劣りしないほどの堂々たる大橋だった。福岡に住んでいた30数年前にはその架橋や開通の話は聞いたことが無く、訪れたのも今回は初めてだった。どうしても寄って見たくなったのは、もうかなり昔になると思うが、鷹島の近海で蒙古襲来時の沈没船が発見され、その近くから往時の生活用具などが大量に発見されたという話を聞いていたからだった。蒙古襲来のことは、太平洋戦争を除いて外国からの侵略というものを受けたことのない日本という国にとって、唯一の侵略されかけた出来事だったからである。

   

鷹島肥前大橋の景観。この海峡の近くの海底に蒙古襲来時の船が沈んで眠っていたとのことである。

 蒙古襲来のことは、勿論中学校の歴史の授業で教わっている。しかしそれがどれほどの重さのものなのか実感したことはずーっとなかった。単なる歴史に記録された出来事の一つくらいにしか思っていなかった。その認識が少し変わったのは、転勤で福岡に来てから市内西部の海岸沿いに残されている元寇防塁の跡を見た時からである。又福岡には郊外の大野城市などには水城(みずき)と呼ばれるもう一つの大防塁の一部が残っている。こちらは元寇よりももっと古い大和朝廷の時代に、朝鮮半島の百済国を支援して白村江(はくすきのえ)の戦いに新羅・唐の連合軍に敗れた日本が、彼らの本土への襲来を恐れてその防備のために時の政庁の在った大宰府近郊に作った大規模な水濠・土塁なのである。これらの遺跡を見ていると、島国の日本にも一人安穏と構えていられない外国とのせめぎ合いがあったことを実感させられるのである。

 新羅・唐の連合軍については、その後の政治情勢の変化などにより、事なきを得たのだったが、凄まじかったのは蒙古襲来だったと思う。何しろ往時の世界の大半を侵略し尽くすというほどの連中だったから、その勢いや理不尽さというものは、今日のどこかの性悪国の比ではなかったのではないか。実際に対馬や壱岐を蹂躙した際の蒙古軍の凄まじさは、生き残った人たちの言い伝えや記録からもおぞましいと言っていいほどのものだったと聞いている。一体どういう風の吹き回しで、あの一見平和な遊牧民が世界中を席巻するような振る舞いを生ずることになったのか、自分などには見当もつかないことである。

 その蒙古軍の襲来は、一度目は失敗し、二度目も台風の動きを読めなかったために、半ば自滅したかの如くに失敗して、我が国はどうにか侵略を免れたのだったが、その残骸遺跡類が発見されたのが鷹島付近の海中だった。この発見が縁となったのか、島にはモンゴル村という名のテーマパークの様なものがつくられ、モンゴル出身の相撲取りなども訪れているとのことだった。鷹島肥前大橋を渡ると、その袂近くに道の駅があり、鷹ら島という妙な名前が付けられていた。その昔のお宝を発見した場所という駄洒落風の命名なのだと思うけど、単純にお宝などと言っておちゃらかしていいものなのか、少し疑問を感ぜずにはいられなかった。なぜなら、この海の底には我が国に危害を加えようとやって来た人たちの遺骸も多く沈んでいるはずであり、それらの人たちも戦を離れれば一人の人間として妻も子もあるという存在であるに違いなく、為政者の強制に従わざるを得なくてやって来たに違いないからである。それを強く思ったのは、道の駅の構内に置かれていた、往時の蒙古軍が使った軍船を復元した実物大の模型を見た時だった。

   

元寇時の蒙古の軍船の復元模型。これが実物大だとすると、船というよりも小舟と言った方が良いと思うほどの小型のものだった。

 その船は、船ではなく小舟といった方が相応しい真に安易な造りで、まるで漁師が港の近くで漁をするための伝馬船に毛が生えた如きのものだったからである。こんな小舟にわずかな食糧と水を積んで、よくもまあ大海を渡って来たものである。乗員は恐らく10人にも満たなかったのではないか。大船団を組んで勢いに乗り、東シナ海の荒波もものともせずという、怖さ知らずの意気が上がっていたのだろうけど、無謀といえばこれ以上の無謀は無いように思った。ようやく日本国の本土に乗り込んで、一気に都まで征服しようと意気込んでいたのに、辿り着いた九州の地に偶々台風が襲来し、この船団を大破滅に導いたとは! 彼らにとっては、真に不幸な出来事だった。多くの人々が理由も解らぬままに海の藻屑と消え去ったのだった。これは一方の我が国にとっては、何という僥倖(ぎょうこう)だったのか。まさに歴史的な僥倖だったと言わなければならないと思う。

 しかし、このことを反対側の蒙古人の立場から考えてみると、それは真に以って横着な油断以外の何物でもないということになる様に思う。油断というのは、その本質は思い上がりなのだと思う。台風を知らなかったといえば、それは知識や経験の無智ということになるのかもしれないけど、この蒙古襲来の本質は、連戦連勝の勢いに任せた彼らの驕り、すなわち思い上がりがその根底に横たわっていたのは明らかである。戦によらず敗北の真因は思い上がりに起因することが多いのは、世界の歴史の示すところの様に思えてならない。

 ところで、この歴史的な僥倖を、我が国の後の為政者サイドは、神格化して吹聴し、台風を神風などと呼んで国民を欺瞞し、無謀な戦をし続けて大きな犠牲と代償を払ったことは歴史に新しい。往時の蒙古軍においてもあるいは戦前の日本軍においても、闘争・侵略の本能というのは、一体どこからきているのか。なぜ侵略や闘争が必要なのか。歴史の成り行きがそのような結果をもたらすとしても、平和や博愛などを標榜する人間という生き物のもつ相矛盾した生存の在り方は、自分には不可解である。鷹島は、その矛盾の在り様を今に残す一つの証ではないかと思った。  (2012年 九州の旅から  長崎県)

 

 

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