山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

肥前浜宿を訪ねる

2012-11-26 06:05:34 | 旅のエッセー

  全国に93カ所の「重要伝統的建造物群保存地区」というのがある。これは文化財保護法に規定する文化財種別の一つで、法に基づいて特に価値の高いものを国が選定したものを指している。今回の九州の旅では、これらの地区を訪ねることも一つのテーマとして取り上げており、沖縄県を除く九州各県にある19の地区の内、12カ所を訪ねることが出来た。その中で、同じ町の隣りあったエリアに二つの保存地区があるのは、佐賀県鹿島市にある肥前浜宿だけである。

 肥前浜宿は、地図を見ると気づくことなのだが、有明海に面しての交通の要所であり、江戸時代は船の便と陸行の街道をもって人や物資移動の拠点の一つとしての機能を果たしていたとのこと。街道は長崎に向かう長崎街道であり、宿場町としての賑わいもかなりのものであったらしい。このエリアにある二つの保存地区というのは、一つは市内浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町としての地区と、もう一つは直ぐ隣の、浜川を挟んで北に位置する浜中町八本木宿に残っている醸造町という珍しい存在である。所定の駐車場に車を留めて、3時間ほどそれらの歴史の名残りを見学したのだった。

 鹿島市には有明海に流れ入る川が何本かあるが、その中では北の方から塩田川、鹿島川、浜川などが名を知られているようだ。塩田川は、嬉野市庁のある旧塩田町を流れており、そこにはかつてこの川を往来した船便で栄えた塩田津が、同じ重要伝統的建物群保存地区として残されている。今日訪ねた二つの重要伝統的建物群保存地区は、浜川に沿って繁栄したエリアである。有明海に注ぐ川の多くは流域面積の割には流れる距離が短く、その殆どが50kmにも満たない。筑後川や矢部川は例外として、佐賀市を流れる嘉瀬川でも58kmしかない。これらは何を意味するかといえば、平野が少なく、山が海に迫っているような地形が多いということなのであろう。有明海といえば、周辺の干拓地の広がりなどから平地が多いようにイメージしてしまうけど、実際それらの現地へ行ってみると、直ぐ傍まで山が迫って来ていることを実感する。

   

浜川の景観。左方が上流。向かって左手手前に下流の河口に沿って広がる浜庄津町浜金屋町の集落が櫛比している。右手上方には浜中町八本木宿の醸造町集落などがある。

 さて、先ずは浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町の方を訪ねたのだが、この重なった名称の意味するものがよく解らない。浜庄津とは?浜金屋とは? 推測するに、庄というのは荘と同義即ち荘園であり、津は港だと考えると、この地はその昔はどこかに所属する海岸エリアの荘園だったということなのかもしれない。その中心部が地名として残っているのかも。又浜金屋の方はこれはもう文字通り海辺沿いの鍛冶屋などの金物類の生産加工者の住まいがあったエリアということなのであろう。又、港町・在郷町というのは、要するに田舎の港町という意味なのであろう。トータル的に推測すると、このエリアは江戸時代には、浜千軒とも呼ばれていたほどの賑わった宿場町だったというから、多種類の職業の人々が集まって、夫々の集落のようなものを形成して、町が成り立っていたのであろう。宿場町というのには、○○千軒などと呼ばれるものが幾つかあるけど、その基本形は同じような要素であるのかもしれない。

 浜川の岸に作られた来訪車用の駐車場に車を停め、橋を渡って港町の方へと行ってみた。河口の南側に建物の櫛比するエリアがあった。その中に茅葺き屋根の昔風の建物が保存されており、これが昔の現実を思い起こさせる代表的な建物となっており、それ以外は現代風の建物がほとんどだけど、町の作りとしての生活道路や家の並びなどは、如何にも混み入っていてとても車などが通る余裕はないほどの、その昔の田舎の港町の風情を濃く残していた。その昔は、今保存されている建物と同じような茅葺き屋根の集落が一体に混み合って造られていたに違いない。その混み合いぶりは、息苦しくなるほどの感じがしたが、往時の人々は、そのような密集帯の中だからこそ安心して暮らしが成り立っていたのかもしれない。現代の様に密集した住宅ではあっても、マンションなどは、それぞれが孤立した住まいとなり果て、隣人の顔も知らないなどという暮らし方とは大分に異なっていたに違いない。現代の自由とは異質のより温かみのある不自由な暮らしがそこにはあったのだと思ったりした。港町全体を歩くのは無理であり、3軒の茅葺き屋根の家の周辺をしばらく散策したあと、駐車場に戻り、今度は反対側の醸造町の方へ向かった。

   

浜庄津町浜金屋町の港町・在郷町の景観の中心となっている茅葺屋根の保存建物。3戸だけしか残っていない。建物が密集したエリアにあり、防火対策も万全を期しているようだった。

醸造町と名の付く建物群保存地区を訪ねるのは初めてである。そのエリアは国道207号線を挟んだ西側の方に延びて広がっていた。醸造といえば何よりも酒であり、その後に味噌や醤油というイメージが浮かぶのだが、ここの醸造は酒が中心であり、現役なのかそれとも休業中なのか、あるいは長年の役目を終えた倉なのか、全体として昔の繁栄を偲ばせる酒蔵と思しき建物がいくつも並んでいた。福島県喜多方市の白壁の酒蔵などとは違った雰囲気の建物群が残っていた。どれほどの建物数なのかは判らないけど、20軒は軽く超える連なりではなかったか。現役の酒蔵では、店先での販売を行っている所もあった。酒好きの自分としては、現役の酒蔵の試飲の各戸撃破(?)と行きたいところなのだけど、そんなことをしたらここに泊まらなければならないことになり、それは無謀というもの。よって、それは諦める。

   

浜中町八本木宿の景観。この写真は国道207号からの入り口。狭い中心の通りの両側には、幾つもの造り酒屋の倉が残っている。交易の中心街だったこともあり、継場や古い郵便局の建物なども残っている。

   

現役の酒蔵の一つ。土蔵の壁の漆喰が剥がれおちており、何故か貫禄と風格を想わせる半面、一抹の寂しさのようなものを感じさせた。

しばらく両側に酒蔵を見ながら歩いてゆくと、継ぎ場というのがあった。中を覗くとボランティアの案内の方がおられて、八本木宿のことについて詳しく説明をして下さった。それによるとこの継ぎ場というのは、物資輸送の中継所であったということ。運ばれてきた様々な物資をここで一旦整理して必要に応じて荷の積み替えなどを行うなどの作業が行われた場所ということだった。建物の前には、馬の鼻輪をつなぐ鉄の輪などが残っていた。海陸双方の輸送機能の基地だったのであるから、その賑わいは相当活力の漲るものだったのではないかと思った。ここで働く大勢の人の話し声の姦しさに交じって、出を待つ馬たちの嘶(いなな)きまでもが聞こえてくるような気がした。しかし、それは一瞬の想いであって、現実の何と静かなことか。黒く磨きこまれた太い柱の輝く建物の中はひっそりと静まり返っていて、説明の話声が途切れると、たちまち黒い静寂が継場を包むのだった。

醸造町に来ているのだから、せめて1本くらいは美味い酒を手に入れたいと、継場のその方にお聞きしたら、近くにある菊千代酒造さんというのが、世界のお酒のコンテストで優勝しているとかという話を聞き、そこへ行ってみることにした。今は4月半ば、酒造りには外れた季節である。行ってみれば何か手に入るのではないかと、その酒蔵の店先に着いたのだが、残念なことに此処では販売はしていないとのこと。倉の玄関先の部屋にはコンテストの表彰状や造られている酒の瓶などが数多く並べられていた。「鍋島」というのが中心銘柄らしい。佐賀といえば鍋島藩であり、そこからの命名なのだろうか。九州には福岡で7年余を過ごしたけど、酒よりも焼酎の方が多かったこともあり、鍋島という銘柄は知らなかった。世界一になったというのを聞くと、どうしても飲んでみたいという気になるのが、自分の愚かな性情なのである。しかし、ここでは販売していないというのではどうにもならない。どうしたものかと思案していたら、近くにいた地元の方らしきおばあさんが、近くに売っている店があると話してくれた。こりゃあ、渡りに船だと、早速そこへ行ってみることにした。直ぐそこだとおっしゃるので、概略の道順を教えて頂き、その方に向かった。田舎なので、見つけるのはさほど難しくもなかろうと高をくくって歩き出したのだったが、何と、それからが大汗をかいたのだった。どこまで行っても言われた目印など現れず、酒屋の影も見えない状態だった。知るものと知らざるものとの意識感覚のズレの大きさを改めて思い知らされたのだった。

酒は諦めて車に戻り、家内の帰りを待つことにして浜川脇を歩いていると、後ろから来た軽自動車が側に止まり、いきなり声をかけられた。驚いて振り返ると、何と先ほどのおばあさんがご主人の運転する車でやって来られたのだった。先ほどの説明が不十分で、判らずしまいだったのではないかを心配して、わざわざご主人に頼んで自分を探して来られた様だった。いやあ、恐縮してしまった。どうしても案内するからというご親切を無に知ることなどできるはずもなく、車に乗せて頂いてその店までご案内頂くことになってしまった。嬉しくも申し訳ないという複雑・妙な心境だった。

俗に、「近くて遠きは田舎の道、遠くて近きは男女の仲」というけど、やはり田舎の道の「近く」は、都会のそれとはだいぶ違って、思ったよりもかなり遠い場所に酒屋はあった。ところが、せっかくご案内頂いたのに、鍋島は売り切れで、セット販売のものしか残っていないとのこと。鍋島以外の酒とのセット販売では買うのはためらわれて、止めることにした。ご両人には無駄足をさせてしまい、本当に申し訳なし。その後、駐車場に向かう車の中で、ご主人から醸造町の昔などについてあれこれお話を伺ったのがとても参考になった。

それによると、ご主人(自分よりも10歳くらい年長の方とお見受けしたから80歳くらいか)が若い頃には、この辺りには50軒を超える造り酒屋があったとのこと。この辺りはもともと良い米のできる穀倉地帯であり、酒米の生産も盛んだったとのこと。また、水の方は多良山系の伏流水が多く湧き出でて、酒造りに好適の場所だったらしい。海の傍では酒造りに向いた水は望めないのではないかと思っていたのだが、それはとんだ無智の為せる想いだった。あとで地図を見たら、多良岳も経ケ岳も千mもの高山であり、その山々は海から20kmも離れていないのである。それにしても海の直ぐ近くのこの場所に50軒を超す造り酒屋が並んでいたとは驚きである。今はその後の激しく移り変わる世の中の大波を受けて、往時の半分にも及ばぬ数の酒蔵が細々とその命脈を保とうとしているとのことだった。また、おばあさんからは東京の大学に行っているという孫娘さんの話などを伺ったりして、遠い都に住む肉親に対する愛情の深さをしみじみと感じさせられ、二つの文化財保存地区とは別の、その昔につながるこの地に住まわれる人たちの心の温かさを思ったのだった。

自分たち旅人は、気まぐれな好奇心や一方的な思い込みで観光地などを訪れ、そこで出会った幾つかの偶然を自分に都合のいいように解釈し、それがその地への旅の感想の全てだったかのような錯覚にとらわれていることが多い。それは致し方ないことなのだろうが、いつも思うのは、どのような観光地でも、名所でも、或いは今回のような文化財としての指定地区でも、そこに住む人たちとの交流、とりわけて「観光」などという看板を外した形での対話や会話が大切だということである。地元に住む人を抜きにして、取り繕われた名所旧跡を外から眺めるだけでは、そこに残されているものの本当の姿や歴史を窺い知るには不足するものが多すぎるように思う。今回、肥前浜宿に残る二つの重要伝統的建物群保存地区を訪ねて、一番印象に残ったのは、老夫婦との不思議なご縁だった。それは文化財とは直接係わりはないように見えるけど、この土地に住む人たちの現代の今につながる心の温かさを表象しているように思った。 (2012年 九州の旅から)

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