与謝野晶子
春雨に
ぬれて君こし
草の門よ
おもはれ顔の
海棠の夕
今日は朝日カルチャー
楽のお話し
楽焼には
黒楽と赤楽があり
黒楽は黒だけだが
赤楽には赤だけではなく
白や緑もある
焼き貫の灰器は
窯に焼きっぱなしにすることで
取り出して水に入れたら引出し黒になる
長次郎は樂家初代。
中国出身の
父・あめや(阿米也、飴屋または飴也)と
母・比丘尼の間に生まれた。
帰りはそごうの地下のお菓子屋さんへ
白小豆の三笠山二つ買った
紀 貫之
緑なる
松にかかれる
藤なれど
おのが頃とぞ
花は咲きける
紀 貫之
藤の花
色ふかけれや
影みれば
池の水さへ
濃紫なる
今日は小雨
木曜稽古
待合には藤娘を掛けた
お弟子様
二人がお休みだったので
早く終わった
その分
昼寝の時間
夕方まで寝てしまった
藤原俊成
惜しむとて
春はとまらぬものゆゑに
卯月の空は
厭ふとや見む
今日は水曜稽古
二ヵ所の炉に炭が入ると暑い
庭の木々は毎日毎日
若い葉の芽を伸ばす
あっという間に庭中みどり色に
なってしまった
お菓子は
黄身羽二重の「うらら」と
ういろう製の三色お団子
写真は
寄付の掛け物
狩野探信
さくらの満開も
一週間で終わる
在原元方
惜しめども
とどまらなくに
春霞
帰る道にし
たちぬとおもへば
今日は書道のお稽古日
森金先生と二人
あとから
ポツポツ生徒さんが見えた
わたしめは
ペン字硬筆を少し書いて
一休み
お湯を沸かして
珈琲を飲む
お菓子を食べる
お習字の紙を
漢字と仮名に整理
片付けると
疲れたらまた甘いもの食べる
お茶をのむ
これの繰り返し
提出したのは三枚のみ
写真は
呉俊明ゴシュンメイ
五十嵐 浚明イガラシシュンメイのこと
元禄13年(1700)~天明元年(1781)
江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。
本姓は藤原、
修姓は呉。
諱は安信、
後に浚明。
字は方篤、後に方徳。
号は思明、孤峰、穆翁、竹軒。
江戸で
狩野良信栄信に狩野派、
京都で
竹内式部に経学を学び、
宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。
今日は研究会
教室を出るや否や
勉強したことは
霧のごとく消え去るが
指し木するために
遠州木槿の枝と
三種類の椿の枝を頂戴するのは忘れず
家まで持って帰った
春日野の若紫のすり衣
しのぶのみだれ限り知られず
今日は文の会
いつものイタリアンで
ワインとおつまみ
パスタを2種類シェア
満腹ほろ酔い
それから
本の少し伊勢物語を音読す
ほんの少し
伊勢物語は
平安時代前期に書かれたとされる
歌物語
段ごとに必ず和歌が入ってる
作者は不詳
在原業平をモデルとした「男」の
恋愛を描いた短編小説
伊勢物語は源氏物語同様
歌人に必須の教養とされる
伊勢物語の嵯峨本もある
嵯峨本とは、
江戸初期,京都嵯峨の素封家角倉素庵スミノクラソアン(角倉了以の子)が
本阿弥光悦の協力のもとに
刊行した私刊本の総称。
角倉本,光悦本ともいう。
雲母を刷り込んだ美しい用紙に
かな文字の木活字を用いた
美術的価値の高い印刷物。
《観世流謡本》
《伊勢物語》
《徒然草》
その他が現存
嵯峨本については
朝日カルチャー新宿の一日講座へ行った事があった
けど
行っただけ
「類聚歌合ルイジュウウタアワセ」は
平安時代の歌合集で
「二十巻本歌合」とも呼ばれる。
藤原頼道が歌合文献の集成を企画し、
46度の歌合を収めた「十巻本歌合」が編纂されたが、
これは完成をみなかった。
これにならい
さらに規模の大きい集成が企図されたものが、
この「二十巻本歌合」である。
その成立は、元永・大治(1118~31年)頃と推測されているが、
30年余をかけ断続的に編纂がおこなわれ、
最終的には藤原忠道が大きく関与した。
200余度の歌合を収めた二十巻本歌合の筆跡は、
20余種に分かれており、
平安時代後期の書風を伝える重要な作品である。
(e国宝ヨリ)
主催者の階層別に
内裏・上皇宮・后宮女院・
女御家御息所・親王家など
20巻に編纂したもの。
藤原忠家筆と伝えられるものは「柏木切」と、
忠家の子である藤原俊忠筆と伝えられるものは「二条切」と呼ばれている。
とネットのどこかに書いてあった
かつて陽明文庫で実物を拝見し
研究会でも勉強した
カルチャー教室にも通ってもいる
のに
古筆は全くわからない
何とか分かるのは
高野切一の手ぐらいか
トホホ…
今日はいい天気
予定どおりに出かけた
小さな茶会へむかう
薄茶のみだが八畳に七名
道具は皆まわってくる
嬉しい
座った隣の方とお話をすると
なんと新潟からお越しだとか
コロナ禍前にはよく出掛けた
お茶会が目的の小旅行
いいね
崇徳院
花は根に鳥は古巣に帰るなり
春のとまりを知る人ぞなき
『千載集』
晩春だ
二十四節気5日の清明が過ぎると
まさにその通り
桜は満開
野草や木々の花が咲き始める
万物の清々しい生命力
が溢れるのだ
が
案外この時期は体調が悪い
一気に行動せず
体調と気候とを
少しずつ様子を見ながら
動くことにしている
明日は「大仏開眼の日」
752年(天平勝宝4年)
聖武天皇の発願の東大寺の大仏完成、
開眼供養会(魂入れの儀式)が行われた日。
今日は
南方録のお勉強
『南方録』は七巻からなる
一「覚書」
二「会」
三「棚」
四「書院」
五「台子」
六「墨引」
七「滅後」
それと
「墨引」
利休が後に残さぬように
と墨を引いたという
今日で台子まで終わった
私は休んでばかり
内容は入っていない
まあ
ゆっくり行こう
写真は
教室の窓からの桜
花御堂 月も上らせ給ひけり 一茶
明日は花祭り
灌仏会、仏生会、降誕会、浴仏会
以前◯庵の春の茶事
床の間に小さな花御堂があり
誕生仏が天地を指していた
それを見て私も
誕生仏欲しいかも
でもこれ以上
荷物が増えては困るので
諦めた
花祭りに甘茶をいただくと
無病息災で過ごせるとも
いわれるが
お寺に出向く予定はない
無病息災でないと凄く困るが
今日は木曜稽古
四月はじめの稽古日だ
水屋の棚にのっている
薄茶の茶碗は
さくらの模様が多い
まあ仕方ないか
四月は晩春
桜の次は
そろそろ空木、山吹か藤か
そのあとは
あやめに杜若、花菖蒲
紫陽花と移る
写真は庭の雪餅草
二本あったのに
一本しか出てこない
今日は水曜稽古
掛け物は拈華微笑ネンゲミショウ
拈華微笑 ネンゲミショウとは
禅宗において
禅の法脈を
釈尊が摩訶迦葉に
微妙の法門として
付嘱した
とする伝説のこと。
禅宗の起源を説く寓話であり、
公案の一つでもある。
宋代以降の禅宗において、
不立文字・教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された。
インドの霊鷲山リョウジュサン
(グリドラクータ、ギッジャクータ)上で
釈尊が黙って華を拈ヒネったところ、
会座の衆はその意味を理解することができなかったが、
迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。
悟りは
文字理論によって伝わるものではない
という不立文字の意味を示しものであり、
釈尊が迦葉尊者にのみ
正法を授けたという伝灯の起源となった。
この寓話の根拠は、
偽経である大梵天王問仏決疑経である。
(ウィキペディア)
届いたお菓子は
浮島製の「水山吹」と「柏餅」
どちらも美味しかった
今日は読売カルチャー教室
茶話指月集をちょっとだけ勉強した
茶話指月集は
チャワシゲツシュウ
久須美疎安クスミソアンが
義父の藤村庸軒から聞いた茶話をまとめた。
利休、宗旦の逸話が
七十数話収められている。
1701年(元禄14)に出版された。
二巻。
久須美疎安クスミソアン
寛永13(1636)~享保13(1728)
江戸中期の茶人。
千宗旦の弟子
藤村庸軒の女婿。
名は小兵衛。
洗竹庵,鷯巣などと号した。
京都上京新在家の人。
のち鴨東の岡崎に住し,
石河自安,京極高広(安智)らと共に
岡崎三隠士と呼ばれた。
茶を宗旦,庸軒に学んだので,
宗旦門下ともされる。
元禄14(1701)年,
庸軒による
宗旦からの聞き書きを主とした
『茶話指月集』を板行。
茶の湯の逸話集としては比較的早い成立。
庸軒の茶道具を彷彿させる手作りの茶碗,
茶杓などが残るが,数は少ない。
(コトバンク)
また今日の講義で
千利休伝来の鷲棗を所持していた。と知った。
写真は
駅までの道
学校の裏の道が
さくら色になっていた
藤原定家
しのばじよ
我ふりすててゆく春の
なごりやすらふ
雨の夕暮れ
今日は具合が悪いと思ったら
雨が降っていた
用事もないからずっと
録画のテレビを見て
得意なゴロゴロしてる
写真は芽を出してきた
雪餅草
四月の銘
曙 アケボノ 甘茶 アマチャ 浦千鳥 ウラチドリ 香具山 カグヤマ
杏花雨キョウカウ…清明の頃に降る雨
穀雨 コクウ 胡蝶 コクウ 嵯峨野 サガノ 潮騒 シオサイ
東雲 シオノメ 春光 シュンコウ 春潮 シュンチョウ 春眠 シュンミン
春雷 シュンライ…春に鳴る雷。初雷。
菫 スミレ 惜春 セキシュン
田打 タウチ…田植えの為に田を耕すこと。田掻タカキ。
千代の春 チヨノハル 苗代 ナエシロ 春の虹 ハルノニジ
葉桜 ハザクラ 羽衣 ハゴロモ 花筏 ハナイカダ
花曇 ハナグモリ…花どきの曇り空クモリソラ
花の宴 ハナノエン 花の影 ハナノカゲ 花散里 ハナチルサト
花吹雪 ハナフブキ 花御堂 ハナミドウ
花祭り ハナマツリ
春霞 ハルガスミ、シュンカ 春時雨 ハルシグレ 雲雀 ヒバリ
仏生会 ブッショウエ 暮春 ボシュン
百千鳥 モモチドリ …鶯うぐいすの異称。古今伝授の三鳥の一。
八重霞 ヤエガスミ 山櫻 ヤエザクラ 山時鳥 ヤマホトトギス
山吹 ヤマブキ 山笑う ヤマワラウ 夢見草 ユメミグサ
夜桜 ヨザクラ 吉野 ヨシノ 若竹 ワカタケ
別れ霜 ワカレシモ …晩春の霜。忘れ霜。
若葉 ワカバ
若竹 ワカタケ
大江千里 オオエノチサト
照りもせず
曇りもはてぬ春の夜の
おぼろ月夜に
しくものはなし
大江千里
(850ころ―905ころ)
平安前期の歌人。
参議従三位音人オトンドの三男。
父の音人は阿保親王の落胤と考えられ、
在原業平・行平は千里の叔父にあたる。
大江家は菅原家と並ぶ
学問の家であり、
彼自身大学学生の出身であるが、
千古チフル(弟)や朝綱アサツナ、維時コレトキ(甥)に比して
詩人としての評価は劣り、
不遇な官途に甘んじた。
903年(延喜3)兵部大丞を極官とする。
反面、「是貞親王家歌合」
「寛平御時后宮歌合」に出詠し、
宇多帝からは古今の歌の類聚を委嘱されて
『句題和歌』を献上するなど、
歌人としての声望は高いものがあった。
(コトバンク)
写真の
掛け物の和歌である
筆者は不明
今日は雨
春の雨
木戸の前のイロハ紅葉が
芽吹いてきた
ひと雨毎にむくむくと葉柄や
枝を伸ばしはじめた
時間の流れる早さを見せつける
まだ春は始まったばかり
これから
ぐんぐん伸びる伸びる
それを楽しみに
生きよう
与謝野晶子
春はただ
盃にこそ注ぐべけれ
智慧あり顔の
木蓮の花
わが家の白木蓮はもう散ってしまったが
天に向かって花ひらく姿は
必ず空と一緒に見上げることとなる
土曜日は瓶缶を出す日
四つ角に置きに行くと
うちの木蓮の花びらがあった
どうやらここまで飛んできたらしい
茶色くなって寂しいから
拾って家のごみ箱へ捨てよう
今日はいつもの病院へ
薬をもらいに
午後は
朝日カルチャーの
崩し字の読み方教室
今日は乾山の書
あっという間に終わった
カルチャースクールは予習も復習もなく
月に一度の一時間半だが
勉強したような気持ちにはなる
お気楽なことだ
平忠盛 タイラノタダモリ
和歌・歌人136
ありあけの月もあかしの浦風に
浪ばかりこそよるとみえしか
『金葉集』
平忠盛
タイラノタダモリ
永長1(1096)~仁平3(1153)
平安時代末期の武将。
正盛の子,清盛の父。
永久1 (1113) 年強盗を捕えた功で
一躍従五位下に叙せられた。
同年の永久の強訴にも父とともに活躍。
大治4 (29) 年備前守であった忠盛は,
山陽,南海道の海賊追捕を行なった。
彼を任用した白河法皇が同年に没し,
鳥羽上皇が院政を開始すると正四位下に叙せられ,
武名と財力 (国守歴任,および宋との貿易による富) とを背景に,
院と密接な関係を結んで昇殿を望んだ。
長承1 (32) 年得長寿院造営の賞として
待望の内裏昇殿が許され,
平氏政権の基盤を築いた。
(コトバンク)
今日は
寒いというより冷たい感じ
ダウンコートでは大袈裟かと思ったが
ちょうど良かった
庭の宝鐸草が一斉に芽を出した