今日は東京美術倶楽部の
「2020東美アートモール」へ
12/5土曜日
12/6日曜日
二日間の開催だ
東京美術倶楽部の一階はオークションなので
三階へ
そこで松籟庵様
松風庵様と里庵様の三名様に
偶然おめにかかる
コロナ禍の時期ゆえ
知り合いに会えるのは嬉しく
偶然なら尚嬉しい
では又ね
ご機嫌よう
三階は
各お店ごとに
正札会のように商品が
ならんでいる
何を買おうという
目的は無い
買う気も無いのだが
いざ見ると
買える金額だったり
ちょっと欲しいかなと
気持ちがグラつき
買おうかな
買っちゃおうと
結果
一緒に行ったお弟子様と私
それぞれ買ってしまった
買うつもりはなかったのに
写真はAmazonで買ったばかりの
悪猫カレンダー
気に入ってる
悪 猫
今日は研究会
九州の焼物のうち
上野、八代、小代を復習
尊楷(上野喜蔵)は
慶長3(1598)年ごろに
加藤清正に従って日本に渡来
はじめ唐津に住しのち
細川忠興に招かれ焼物を焼く
上野焼と高田焼の基礎を築いた陶工
上野焼アガノヤキは
福岡県の焼物
細川忠興が
小倉藩初代藩主となった慶長7年1602、
尊楷(上野喜蔵)を招いて、
豊前国上野に登り窯を築く
「上野古窯」
皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)
尊楷は細川家の国替えに従い熊本へ移るものの、
子の十時孫左衛門らが上野に留まり
次の藩主・小笠原家のもとで窯は継承される
八代焼ヤツシロヤキ(高田焼)は
熊本県の焼物
寛永10年1633、
細川忠興が
息子忠利の肥後熊本転封に伴い
肥後国八代城に入るに従い
上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに
八代郡高田郷
に移って窯を築いた。
これが高田焼の始まり
その後は代々
熊本藩の御用窯として保護された。
小代焼ショウダイヤキは
熊本県の焼物
寛永9年に豊前から転封された
細川忠利が
陶工の牝小路家初代源七、
葛城家初代八左衛門を従え、
藩主の命によって
焼き物を焼かせたのが始まり。
と調べたが
難しい
写真は雨後の青梅街道
九州の焼物のうち
上野、八代、小代を復習
尊楷(上野喜蔵)は
慶長3(1598)年ごろに
加藤清正に従って日本に渡来
はじめ唐津に住しのち
細川忠興に招かれ焼物を焼く
上野焼と高田焼の基礎を築いた陶工
上野焼アガノヤキは
福岡県の焼物
細川忠興が
小倉藩初代藩主となった慶長7年1602、
尊楷(上野喜蔵)を招いて、
豊前国上野に登り窯を築く
「上野古窯」
皿山窯(本窯)、釜の口窯、岩谷窯(唐人窯)
尊楷は細川家の国替えに従い熊本へ移るものの、
子の十時孫左衛門らが上野に留まり
次の藩主・小笠原家のもとで窯は継承される
八代焼ヤツシロヤキ(高田焼)は
熊本県の焼物
寛永10年1633、
細川忠興が
息子忠利の肥後熊本転封に伴い
肥後国八代城に入るに従い
上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに
八代郡高田郷
に移って窯を築いた。
これが高田焼の始まり
その後は代々
熊本藩の御用窯として保護された。
小代焼ショウダイヤキは
熊本県の焼物
寛永9年に豊前から転封された
細川忠利が
陶工の牝小路家初代源七、
葛城家初代八左衛門を従え、
藩主の命によって
焼き物を焼かせたのが始まり。
と調べたが
難しい
写真は雨後の青梅街道
日曜日の茶会で
鈞窯のお茶碗が登場した
独特の釉薬なので
すぐわかったが
隣のお客様が
何ですか[キンヨウ]って
と聞かれた
「中国の陶磁器で平均台の均と
窯場の窯と書きます」と答えたが
普通は鈞窯と書くかな
中国の元時代だと思っていた
澱青釉または月白釉といわれる
マットな青い釉薬が厚く掛かり
黄瀬戸のタンパンのように
紫色の発色する釉薬を吹き付けている
土は細かくねっとりした赤い土だった
ネットで調べると
鈞窯キンヨウ
均窯とも書く。
中国,河南省禹県神きん鎮で,
宋~元代に盛大に焼かれた陶磁窯,
およびその磁器。
禹県が明初に鈞州と呼ばれていたため
この名がある。
汝窯址,修武窯址からも
同種の陶片が出土している。
素地 (きじ) は半透明で,
肌色は鮮かな青色から青白色まで変化が多く,
なかには銅釉を用いて,
斑文や一部分に紅紫色を発色させた
特殊な技法もみられる。
器形には鉢,碗,皿,香炉,壺,瓶,
植木鉢などがある。
(コトバンクより)
鈞窯の土を見たのは初めてだ
茶会に出かけると
何かしら
新しいことを知り得る
勉強になった
鈞窯のお茶碗が登場した
独特の釉薬なので
すぐわかったが
隣のお客様が
何ですか[キンヨウ]って
と聞かれた
「中国の陶磁器で平均台の均と
窯場の窯と書きます」と答えたが
普通は鈞窯と書くかな
中国の元時代だと思っていた
澱青釉または月白釉といわれる
マットな青い釉薬が厚く掛かり
黄瀬戸のタンパンのように
紫色の発色する釉薬を吹き付けている
土は細かくねっとりした赤い土だった
ネットで調べると
鈞窯キンヨウ
均窯とも書く。
中国,河南省禹県神きん鎮で,
宋~元代に盛大に焼かれた陶磁窯,
およびその磁器。
禹県が明初に鈞州と呼ばれていたため
この名がある。
汝窯址,修武窯址からも
同種の陶片が出土している。
素地 (きじ) は半透明で,
肌色は鮮かな青色から青白色まで変化が多く,
なかには銅釉を用いて,
斑文や一部分に紅紫色を発色させた
特殊な技法もみられる。
器形には鉢,碗,皿,香炉,壺,瓶,
植木鉢などがある。
(コトバンクより)
鈞窯の土を見たのは初めてだ
茶会に出かけると
何かしら
新しいことを知り得る
勉強になった
今年十月に開催された
三渓園に於ける大師会茶会
山の上の茶室「金毛窟」の
掛けものは
源実朝の「日課観音」だった
「金毛窟 」
1918年(大正7年)建築
三溪が建てた一畳台目
金毛窟という名の由来
床柱は大徳寺の山門
金毛閣の高欄の架木を使用
ご存知だろうか
「日課観音」のことを
私は全く知らず
ご一緒させて頂いたF先生からお話しを伺い
また後日 詳しく教えて頂いた
日課とは
毎日きまってする物事のこと
散歩や体操それぞれあるだろうが
日課として書かれた観音図ということ
掛けものの筆者は源実朝
1192~1219
鎌倉幕府第3代将軍
頼朝の嫡出の次男
兄の頼家のあと
12歳で征夷大将軍
武士として初めて
右大臣に任ぜられる
その翌年に鶴岡八幡宮で
頼家の子公暁に暗殺された
藤原定家に師事
家集に「金槐和歌集」がある
仏道に励み
写経をするように
源実朝は観音図を描く事を
日課とした
昭和十二年
三渓の長男善一郎が急逝
その一週間後
月華殿、金毛窟にて
追悼の茶事がひらかれ
金毛窟の床の間に
掛けられた軸が
「日課観音」だったという
当時を偲び
今回の大師会でも同じく
「日課観音」を掛けたと
茶室で説明を受けた
写真は
F先生の床の間の掛けもの
仰木魯堂の日課観音
心の内で手を合わせた
三渓園に於ける大師会茶会
山の上の茶室「金毛窟」の
掛けものは
源実朝の「日課観音」だった
「金毛窟 」
1918年(大正7年)建築
三溪が建てた一畳台目
金毛窟という名の由来
床柱は大徳寺の山門
金毛閣の高欄の架木を使用
ご存知だろうか
「日課観音」のことを
私は全く知らず
ご一緒させて頂いたF先生からお話しを伺い
また後日 詳しく教えて頂いた
日課とは
毎日きまってする物事のこと
散歩や体操それぞれあるだろうが
日課として書かれた観音図ということ
掛けものの筆者は源実朝
1192~1219
鎌倉幕府第3代将軍
頼朝の嫡出の次男
兄の頼家のあと
12歳で征夷大将軍
武士として初めて
右大臣に任ぜられる
その翌年に鶴岡八幡宮で
頼家の子公暁に暗殺された
藤原定家に師事
家集に「金槐和歌集」がある
仏道に励み
写経をするように
源実朝は観音図を描く事を
日課とした
昭和十二年
三渓の長男善一郎が急逝
その一週間後
月華殿、金毛窟にて
追悼の茶事がひらかれ
金毛窟の床の間に
掛けられた軸が
「日課観音」だったという
当時を偲び
今回の大師会でも同じく
「日課観音」を掛けたと
茶室で説明を受けた
写真は
F先生の床の間の掛けもの
仰木魯堂の日課観音
心の内で手を合わせた
なかなかに心をかしき臘月哉 芭蕉
12月に入った
今月の予定表は
ぎっしり詰まって
1日も空いてない
知らない間にそうなって
驚いた
茶会もある茶事もある
楽しいことが詰まっている
はずだ
出掛けて行くことを
億劫に思わなくなったのは
元気になって来たのだ
今日と明日は
東京美術倶楽部にての正札会開催
二階から見て回る
そのあと四階と三階
最後に一階でお茶を飲んだ
今日は何も買わずしまい
それもつまらないけど
欲しいものもなかった
のかな
新しいもの古いもの
その骨董や茶道具に値段が付いてるのだから
面白い
12月に入った
今月の予定表は
ぎっしり詰まって
1日も空いてない
知らない間にそうなって
驚いた
茶会もある茶事もある
楽しいことが詰まっている
はずだ
出掛けて行くことを
億劫に思わなくなったのは
元気になって来たのだ
今日と明日は
東京美術倶楽部にての正札会開催
二階から見て回る
そのあと四階と三階
最後に一階でお茶を飲んだ
今日は何も買わずしまい
それもつまらないけど
欲しいものもなかった
のかな
新しいもの古いもの
その骨董や茶道具に値段が付いてるのだから
面白い
昨日病院へ行ったのだが
その時リハビリの先生から
家にとじ込もっていないで
なるべく外へ出掛けましょうね
と優しく言われた
はい
わかりました
それでは出かけよう
サカチカさんと約束して
今日は
東京美術倶楽部の正札会へ
入口に入ると
結構混んでいる
一足でも早く行かねばと
少々焦りぎみ
エレベーターにのり
まずは四階へ
ここのエレベーターは
美術品をのせるからとのことだが
非常に遅いのだ
品物を少し見ていると
オーさんに偶然会った
紫兎先生をお見かけしましたとのこと
受付で呼び出して貰ったが
おみえにはならず
放送には案外気がつかないものだ
以前私も呼び出されたが
真剣に茶道具をみているし
回りの騒音もあるからか
気がつかず
その時は何回か繰返し放送され
ようやく気がついた位だから
そのうち
先生に出合うかもしれないと
道具を見て歩く
と
何人かお友達に会った
それぞれお弟子様をお供に
お道具を探されている
お邪魔をしないように挨拶して
私たちも道具をさがす
帰りには
包みを手にして
新橋でお茶
先生にお目にかかれずじまい
足の痛いのも一時は忘れて
今日は少しニコニコだ
写真は今読んでる最中
その時リハビリの先生から
家にとじ込もっていないで
なるべく外へ出掛けましょうね
と優しく言われた
はい
わかりました
それでは出かけよう
サカチカさんと約束して
今日は
東京美術倶楽部の正札会へ
入口に入ると
結構混んでいる
一足でも早く行かねばと
少々焦りぎみ
エレベーターにのり
まずは四階へ
ここのエレベーターは
美術品をのせるからとのことだが
非常に遅いのだ
品物を少し見ていると
オーさんに偶然会った
紫兎先生をお見かけしましたとのこと
受付で呼び出して貰ったが
おみえにはならず
放送には案外気がつかないものだ
以前私も呼び出されたが
真剣に茶道具をみているし
回りの騒音もあるからか
気がつかず
その時は何回か繰返し放送され
ようやく気がついた位だから
そのうち
先生に出合うかもしれないと
道具を見て歩く
と
何人かお友達に会った
それぞれお弟子様をお供に
お道具を探されている
お邪魔をしないように挨拶して
私たちも道具をさがす
帰りには
包みを手にして
新橋でお茶
先生にお目にかかれずじまい
足の痛いのも一時は忘れて
今日は少しニコニコだ
写真は今読んでる最中
今玄関の床の間に
ホトトギスの短冊を掛けてある
昔からあるのだが
ちゃんと読めない
作者もはっきりしない
今 読めなくとも
いつの日かわかるかも知れない
郭公ホトトギス○○○○椋本ムクモト鈴鹿川
おのが時とや鳴きわたるらむ 為之
以前ブログに
短冊の事を書いた気がして
探したら見つかったのだが
写真が今日と同じ短冊の写真だった
以下はそのコピペ
短冊は鎌倉時代
頓阿が不破の関の板廂に歌を書いて二条為世に贈った
その板廂の大きさが短冊の大きさになったとの伝説がある
深秘抄に
短冊の事、
為世卿頓阿申合候哉、
長さ一尺にて候、
只今入見参候、
此題岸柳、
為世卿自筆にて候、
裏書は頓阿、
重而子細は尭孝筆跡にて候
云々と
現在の短冊の大きさは
縦一尺二寸 36.4cm
横二寸 6.1cm
昔はもう少し小さい
正式(晴れ)の歌は懐紙に、
普段(ケ)の歌は短冊に書いたという
ホトトギスの短冊を掛けてある
昔からあるのだが
ちゃんと読めない
作者もはっきりしない
今 読めなくとも
いつの日かわかるかも知れない
郭公ホトトギス○○○○椋本ムクモト鈴鹿川
おのが時とや鳴きわたるらむ 為之
以前ブログに
短冊の事を書いた気がして
探したら見つかったのだが
写真が今日と同じ短冊の写真だった
以下はそのコピペ
短冊は鎌倉時代
頓阿が不破の関の板廂に歌を書いて二条為世に贈った
その板廂の大きさが短冊の大きさになったとの伝説がある
深秘抄に
短冊の事、
為世卿頓阿申合候哉、
長さ一尺にて候、
只今入見参候、
此題岸柳、
為世卿自筆にて候、
裏書は頓阿、
重而子細は尭孝筆跡にて候
云々と
現在の短冊の大きさは
縦一尺二寸 36.4cm
横二寸 6.1cm
昔はもう少し小さい
正式(晴れ)の歌は懐紙に、
普段(ケ)の歌は短冊に書いたという
春雨の晴れし朝アシタに
富士の嶺の
霞まぬ雪の
色をみるかな
張輔
高島張輔タカシマチョウスケ
萩生まれ
明治時代の漢詩人
富士の絵が描いてある
先週は寒かった
水曜の稽古のとき
掛けた軸だが
今も掛けてあるが
明日にはもう合わない
明日は
桜の軸を掛けよう
富士の嶺の
霞まぬ雪の
色をみるかな
張輔
高島張輔タカシマチョウスケ
萩生まれ
明治時代の漢詩人
富士の絵が描いてある
先週は寒かった
水曜の稽古のとき
掛けた軸だが
今も掛けてあるが
明日にはもう合わない
明日は
桜の軸を掛けよう
かつて鑑定団に出演していた
永井龍之介氏の
銀座永井画廊にて
呈茶をいたします
2月28日(水)と
3月31日(土)に
銀座の画廊にて天目茶碗とお茶一服
どうぞお越しくださいませ
昨年
9月12日から11月26日の間
上野の東京国立博物館の表慶館にて
フランス人間国宝展が展覧されました
その時のフランス人間国宝
ジャン・ジレル氏の天目茶碗を
銀座の永井画廊にて展示販売されます
その期間は
2月21日㈬から3月3日㈯
3月28日㈬から4月7日㈯
期間中 呈茶をします
2/28㈬ 13時から16時
3/31㈯ 13時から16時
永井画廊中央区銀座8-6-25
河北新報ビル5階
03-5545-5160
資生堂の花椿通りと並木通りの
交差する角のビル5階
以上です
宜しくお願い致します
茶の湯・茶道ランキング
永井龍之介氏の
銀座永井画廊にて
呈茶をいたします
2月28日(水)と
3月31日(土)に
銀座の画廊にて天目茶碗とお茶一服
どうぞお越しくださいませ
昨年
9月12日から11月26日の間
上野の東京国立博物館の表慶館にて
フランス人間国宝展が展覧されました
その時のフランス人間国宝
ジャン・ジレル氏の天目茶碗を
銀座の永井画廊にて展示販売されます
その期間は
2月21日㈬から3月3日㈯
3月28日㈬から4月7日㈯
期間中 呈茶をします
2/28㈬ 13時から16時
3/31㈯ 13時から16時
永井画廊中央区銀座8-6-25
河北新報ビル5階
03-5545-5160
資生堂の花椿通りと並木通りの
交差する角のビル5階
以上です
宜しくお願い致します
茶の湯・茶道ランキング
住吉に天満神のむめ咲ぬ 蕪村
落款には
有信とある
狩野有信 カノウアリノブ
1606-?
江戸前期の画家。
慶長11年生まれ。
狩野探幽の門人。
松平信濃守につかえた。
寛文12年5月13日67歳筆と
しるされたものがある。
号は友閑斎。
( 日本人名大辞典+Plusの解説)
表具は真の行
天神様だからだろう
天満大自在天神
渡唐天神だ
室町時代になるとたくさんの
渡唐天神図が描かれたようだ
唐服に梅の枝を持ち
腰袋をたずさえているとか
菅原道真が夢の中で
径山の無準師範 に参禅し
衣鉢を伝得したという伝説から
多くは道服を着て
両手で梅花を持つ姿を描かれている
と書いてあるものもあった
茶の湯・茶道ランキング
落款には
有信とある
狩野有信 カノウアリノブ
1606-?
江戸前期の画家。
慶長11年生まれ。
狩野探幽の門人。
松平信濃守につかえた。
寛文12年5月13日67歳筆と
しるされたものがある。
号は友閑斎。
( 日本人名大辞典+Plusの解説)
表具は真の行
天神様だからだろう
天満大自在天神
渡唐天神だ
室町時代になるとたくさんの
渡唐天神図が描かれたようだ
唐服に梅の枝を持ち
腰袋をたずさえているとか
菅原道真が夢の中で
径山の無準師範 に参禅し
衣鉢を伝得したという伝説から
多くは道服を着て
両手で梅花を持つ姿を描かれている
と書いてあるものもあった
茶の湯・茶道ランキング
お謡のお稽古に出かけたが
写真を撮るのを忘れた
写真は昨日寄付に掛けた軸
渡辺清筆の鴛鴦の画
雪が笹に積もり寒そうだ
鴛鴦オシの羽に薄雪つもる静さよ 正岡子規
オシドリは
東アジアに分布する。
日本では北海道や本州中部以北で繁殖し、
冬季になると本州以南へ南下し越冬する。
オシドリは一般的に漂鳥であるが、
冬鳥のように冬期に国外から
渡って来ることもある。
(ウィキペディアより)
筆者は渡辺清
江戸後期の画家。
尾張生。
別号に周渓・雪朝。
初め狩野派を学ぶが、
のち土佐光貞・田中訥言に就き、
復興大和派の画家として知られた。
文久元年(1861)歿、84才。
(美術人名辞典ヨリ)
茶の湯・茶道ランキング
写真を撮るのを忘れた
写真は昨日寄付に掛けた軸
渡辺清筆の鴛鴦の画
雪が笹に積もり寒そうだ
鴛鴦オシの羽に薄雪つもる静さよ 正岡子規
オシドリは
東アジアに分布する。
日本では北海道や本州中部以北で繁殖し、
冬季になると本州以南へ南下し越冬する。
オシドリは一般的に漂鳥であるが、
冬鳥のように冬期に国外から
渡って来ることもある。
(ウィキペディアより)
筆者は渡辺清
江戸後期の画家。
尾張生。
別号に周渓・雪朝。
初め狩野派を学ぶが、
のち土佐光貞・田中訥言に就き、
復興大和派の画家として知られた。
文久元年(1861)歿、84才。
(美術人名辞典ヨリ)
茶の湯・茶道ランキング
写真は
歌川広重
名所江戸百景
真間ママの紅葉モミジ
手古那テコナの社モリ
継ツギはし
手古那とは
万葉の時代の少女の名前、
紅葉の間から見える空
雁が飛んでいる
眼下に鳥居、手古那の社がある
鳥居の右奥の橋が継橋
奥の山は筑波山
男体山と女体山
と二つの峰が目印
こうして言われないと
何を見るともなく
ぼうっと見ていて
何が書いてあるかを
気にしないものだ
山部赤人
吾も見つ
人にも告げむ葛飾の
真間の手児奈が
おくつきところ
( 私も見ましたよ、
あの美しかったという
真間の手児奈の墓を。
帰ったら人に教えてや)
■ 葛飾の
真間の入り江に
うち靡く
玉藻刈りけむ
手児奈し思ほゆ
( 真間の入り江で
なびく玉藻を刈っていた、
美しい手児奈が
思い起こされたまらない )
高橋虫麻呂
■ 勝鹿の
真間の井を見れば
立ちならし
水汲ましけむ
手児奈し
思ほゆ
( 真間の井戸を見ると、
昔ここで楽しく水を汲んでいた、
美しい手児奈が
思い起こされたまらない )
詠み人知らず
■ 葛飾の
真間の手児奈を
まことかも
吾に寄すとふ
真間の手児奈を
( 葛飾の真間の手児奈は、
私に心を寄せてに違いない。
あの、真間の手児奈がだよ)
■ 葛飾の
真間の手児奈が
ありしかば
真間のおすいに
波もとどろに
( 葛飾に真間の手児奈が居た頃は、
あまりの美しさに
磯部の波もとどろいたものだ )
■ 足(あ)の音せず
行かむ駒もが葛飾の
真間の継橋
やまず通はむ
( 足音をさせない馬さえいれば、
毎晩この継橋を渡って、
手児奈のところへ
通えるのになぁ )
茶の湯・茶道ランキング
歌川広重
名所江戸百景
真間ママの紅葉モミジ
手古那テコナの社モリ
継ツギはし
手古那とは
万葉の時代の少女の名前、
紅葉の間から見える空
雁が飛んでいる
眼下に鳥居、手古那の社がある
鳥居の右奥の橋が継橋
奥の山は筑波山
男体山と女体山
と二つの峰が目印
こうして言われないと
何を見るともなく
ぼうっと見ていて
何が書いてあるかを
気にしないものだ
山部赤人
吾も見つ
人にも告げむ葛飾の
真間の手児奈が
おくつきところ
( 私も見ましたよ、
あの美しかったという
真間の手児奈の墓を。
帰ったら人に教えてや)
■ 葛飾の
真間の入り江に
うち靡く
玉藻刈りけむ
手児奈し思ほゆ
( 真間の入り江で
なびく玉藻を刈っていた、
美しい手児奈が
思い起こされたまらない )
高橋虫麻呂
■ 勝鹿の
真間の井を見れば
立ちならし
水汲ましけむ
手児奈し
思ほゆ
( 真間の井戸を見ると、
昔ここで楽しく水を汲んでいた、
美しい手児奈が
思い起こされたまらない )
詠み人知らず
■ 葛飾の
真間の手児奈を
まことかも
吾に寄すとふ
真間の手児奈を
( 葛飾の真間の手児奈は、
私に心を寄せてに違いない。
あの、真間の手児奈がだよ)
■ 葛飾の
真間の手児奈が
ありしかば
真間のおすいに
波もとどろに
( 葛飾に真間の手児奈が居た頃は、
あまりの美しさに
磯部の波もとどろいたものだ )
■ 足(あ)の音せず
行かむ駒もが葛飾の
真間の継橋
やまず通はむ
( 足音をさせない馬さえいれば、
毎晩この継橋を渡って、
手児奈のところへ
通えるのになぁ )
茶の湯・茶道ランキング
茶道具の展示会へ寄り道
その添え釜の席の花をパチリ
写真には写っていないが
筒花入に入っている
筒花入というと
利休所持の高麗筒花入が
一番好きだ
筒花入は
比較的花も入れやすく
花も冴える
経筒
神酒筒
送筒
置筒
阿波筒
それから
淡々斎好みの
津泉筒花入
など
色々ある
茶の湯・茶道ランキング
その添え釜の席の花をパチリ
写真には写っていないが
筒花入に入っている
筒花入というと
利休所持の高麗筒花入が
一番好きだ
筒花入は
比較的花も入れやすく
花も冴える
経筒
神酒筒
送筒
置筒
阿波筒
それから
淡々斎好みの
津泉筒花入
など
色々ある
茶の湯・茶道ランキング
我のみと思ひしものを泊まり船
同じ浮き寝の友も我あれ 涌蓮
寂しい歌だ
しかし川の葦陰にある舟を
温かく見つめている
作者の姿が浮かんでくる
季節は秋としておく
涌蓮ヨウレン
江戸中期の真宗高田派の僧。
伊勢黒田生。
浄光寺誓海の弟。
諱は慧亮、
字は達空、嵯峨居士と号する。
初め江戸桜田の澄泉寺に住むが、
のち京都に上り、
冷泉為村に和歌を学ぶ。
安永3年(1774)寂、享年未詳。
(美術人名辞典ヨリ)
茶の湯・茶道ランキング
同じ浮き寝の友も我あれ 涌蓮
寂しい歌だ
しかし川の葦陰にある舟を
温かく見つめている
作者の姿が浮かんでくる
季節は秋としておく
涌蓮ヨウレン
江戸中期の真宗高田派の僧。
伊勢黒田生。
浄光寺誓海の弟。
諱は慧亮、
字は達空、嵯峨居士と号する。
初め江戸桜田の澄泉寺に住むが、
のち京都に上り、
冷泉為村に和歌を学ぶ。
安永3年(1774)寂、享年未詳。
(美術人名辞典ヨリ)
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写真は
歌川広重 名所江戸百景
大はしあたけの夕立
大橋安宅の夕立
印象派の画家として有名なゴッホが
模写したことでもよく知られています。
大橋は日本橋の浜町から
深川六間堀の方にかかっていた橋で、
幕府の御用船安宅丸の
船蔵があったことから、
安宅(あたけ)と呼ばれました。
構図、色調、描写どれをとっても完璧です。
にわかに降り出した夕立の様が、
実に見事に描かれています。
(アダチ版画オンラインページヨリ)
手術を何度もしているせいか
体調は天候の良し悪しで変わる
なぜか体が重くやる気が出ない
どこか病気でもあるのかと
心配するといもあるが
雨が降るとスーと楽になったりする
お天気病と言うらしい
このところ
そんな感じだ
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歌川広重 名所江戸百景
大はしあたけの夕立
大橋安宅の夕立
印象派の画家として有名なゴッホが
模写したことでもよく知られています。
大橋は日本橋の浜町から
深川六間堀の方にかかっていた橋で、
幕府の御用船安宅丸の
船蔵があったことから、
安宅(あたけ)と呼ばれました。
構図、色調、描写どれをとっても完璧です。
にわかに降り出した夕立の様が、
実に見事に描かれています。
(アダチ版画オンラインページヨリ)
手術を何度もしているせいか
体調は天候の良し悪しで変わる
なぜか体が重くやる気が出ない
どこか病気でもあるのかと
心配するといもあるが
雨が降るとスーと楽になったりする
お天気病と言うらしい
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