私たちの身体は、場面場面での便宜のために、現実の存在感を作ったり、またそれと関係なく内面の存在感を作ったりします(拙稿23章「人類最大の謎」)。客観的な現実の物質世界が個人の内面を作っている(唯物論という)のでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っている(独我論という)のでもありません。人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。
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私たちの身体は、場面場面での便宜のために、現実の存在感を作ったり、またそれと関係なく内面の存在感を作ったりします(拙稿23章「人類最大の謎」)。客観的な現実の物質世界が個人の内面を作っている(唯物論という)のでもなければ、個人の内面の主観が現実を作っている(独我論という)のでもありません。人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れてくる、というべきでしょう(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」 )。
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たとえば文学者、あるいは科学者が文章、あるいは科学の方程式で、自分の内面を表現できないことにいらだちを感じても、それは文学が拙いからではなく、科学が未発達であるからでもありません。あるいは哲学者が、意識とは何か、自分とは何か、と煩悶したところで(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー『赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラス ハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由 ]
』)それが宗教や哲学の深淵であるということでもありません。単に、人類の言語が内面を表現する道具として進化したものではなかった、というだけでしょう。言語が土台とする現実はすべてを包含する必要がなかった。それ故に、現実の内部に私たちの内面あるいは意識あるいは自我というものはありません。
身体の奥の奥からくる内面の感覚や感情は言語にできない(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。言語は(比喩で語る以外)内面を語ることができない。逆に言えば、個々人の内面を語れないからこそ、言語は、だれにも共有される現実を語ることができて社会生活の上でまさに実用的になり得る、といえます。
人が言葉を使って自分の内面について考えるとき、たとえば「自分は何者か」、あるいは「自分は死ぬとどうなるのか?」と思うとき、それは内面のことを語っているように聞こえても実は現実から作られた空虚な比喩の言葉です(拙稿12章「私はなぜあるのか?」、拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」
)。こういう言葉には意味があるかのように聞こえても、実は、はっきりした意味はない。そこには言葉が作り出す空虚な幻影しかありません。
言語で語れることは、目で見たり耳で聞いたりできること、あるいはその上に作られる理論、または比喩、でしかないことを忘れてはいけません。
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文学や科学と毎日、接している私たちは、それらがあたかも自由自在にすべてを語っているかのように受け取っています。それは文学者や科学者ばかりではなく、マスコミ、学者、先生たちの語り、書き物、あるいは世間話での会話で、私たちはいつも、言葉で語り合える、自分たちが共有できる現実だけがすべてと思いこんでいるからです。人と人が通じ合う、そういう場では、すべては現実の中にあるとして語られます。人間の使う言語というものがそのように作られているからです。
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