目に見えない人間の内面は、神秘的なところであるような気がする。逆に、だれの目にも見えるこの現実の物質世界は、当たり前すぎて神秘感がない。それを私たちは、あまり意識せずに、使い分けている。人間の内面がなぜあるのか?物質でできた外界がなぜあるのか?私たちが感じるものごとが、なぜ内面と外界に分けられるのか?ふつうそんなことは、考えることがありません。人間には内面があり、それとは別に、外界がある。それは当たり前だ、と人間はだれもが思っています。しかし、拙稿の考えでは、内面と外界を安易に分けて考える常識に問題がある。
(拙稿の見解では)人間の内面と外界は別のものではない。どちらも存在感があるから、人間はそれらが確かにあると感じる。それが、だれの目にも見えるかどうか、手で触れるかどうか、というところで内面と外界は区別されている。人間の言語がそうできている。存在する、ある、という言葉は、内面のものと外界のものとを区別したり、区別しなかったり、はなはだあいまいに使われる言葉です。拙稿の見解では、こういう言葉の使い方のあいまいさから、人間の世界観、人生観、自我意識、そして哲学の混乱が始まる、と考えます。
言葉があいまいだからけしからん、と筆者は言いたいわけではありません。人間の感じる存在感がそうなっているから、言葉がそうなっているのでしょう。ただ、これを文字に書き表すときや、哲学論議に使うときには、もう少し気をつけるべきだった。
存在するという言葉を使うと、そのもとになる存在感覚は自分の身体から離れて、外界の客観的世界に属してしまう。「悲しさ」のような、せっかく私の内部に発生した生暖かい秘密の大切なものが、「悲しさがある」という言葉にすることによって、私の内部から流れ出て行って、だれもがはっきりと目に見える外部の物質たちの間にあることになってしまう。
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