哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

内面と外界を区別する

2007年11月30日 | x3存在はなぜ存在するのか

目に見えない人間の内面は、神秘的なところであるような気がする。逆に、だれの目にも見えるこの現実の物質世界は、当たり前すぎて神秘感がない。それを私たちは、あまり意識せずに、使い分けている。人間の内面がなぜあるのか?物質でできた外界がなぜあるのか?私たちが感じるものごとが、なぜ内面と外界に分けられるのか?ふつうそんなことは、考えることがありません。人間には内面があり、それとは別に、外界がある。それは当たり前だ、と人間はだれもが思っています。しかし、拙稿の考えでは、内面と外界を安易に分けて考える常識に問題がある。

(拙稿の見解では)人間の内面と外界は別のものではない。どちらも存在感があるから、人間はそれらが確かにあると感じる。それが、だれの目にも見えるかどうか、手で触れるかどうか、というところで内面と外界は区別されている。人間の言語がそうできている。存在する、ある、という言葉は、内面のものと外界のものとを区別したり、区別しなかったり、はなはだあいまいに使われる言葉です。拙稿の見解では、こういう言葉の使い方のあいまいさから、人間の世界観、人生観、自我意識、そして哲学の混乱が始まる、と考えます。

言葉があいまいだからけしからん、と筆者は言いたいわけではありません。人間の感じる存在感がそうなっているから、言葉がそうなっているのでしょう。ただ、これを文字に書き表すときや、哲学論議に使うときには、もう少し気をつけるべきだった。

存在するという言葉を使うと、そのもとになる存在感覚は自分の身体から離れて、外界の客観的世界に属してしまう。「悲しさ」のような、せっかく私の内部に発生した生暖かい秘密の大切なものが、「悲しさがある」という言葉にすることによって、私の内部から流れ出て行って、だれもがはっきりと目に見える外部の物質たちの間にあることになってしまう。

拝読サイト:brain-control computer game

拝読サイト:健やかな隙のある人になりたい

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物質ではないものの存在感

2007年11月29日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_apollo 目に見えない脳の中だけで起こっているらしいことは、なんとなく他人とも分かり合えるような気がすることもあるけれども、本当は分かり合えないような気もする。そういう頼りないところがあります。人間どうしの相互理解の、その根本的な頼りなさを無視してしまえば、いくらでも難しい哲学が作れるし、立派な心理学も作れます。

しかし物質ではないものの存在感は、物質の存在感とは、確かさのレベルが違う。人間の内部には、たとえば「悲しさ」というものが存在する、と言ってみたい。だれもが賛成してくれるでしょう。むしろ、それを認めない人は変人です。認めないでがんばると、毎日がとても不便なことになる。でもその話の確かさについては、改めて考えると、だれも実は自信がないはずです。「悲しさ」というものがこの世に存在することの確かさのレベルは、物質である涙やタマネギが存在することに比べると圧倒的に頼りない。「悲しさ」はカメラに写らない。涙やタマネギはカメラに写ります。

その違いはだれも認めるでしょう。それを強調すれば、物質ではないものの存在感は、物質の存在感とは区別できる。心の中にあるもの、人間の内面、主観、そういうものは物質として目に見えない。手で触れない。本人だけが直接感じられる。

その本人でさえも、自分の身体のどこで「悲しさ」を感じているのか分からない。自分の「悲しさ」は、目には見えない。耳にも聞こえない。手で触れない。匂いも味もしない。涙が口に入ってきてしょっぱかったりはします。結局、自分の「悲しさ」でも、直接の五感では感じられない。脳のどこにあるか、はっきりとは分からない感情回路が感じているらしい、と思われるだけです。

客観と主観。一方はだれでもが感じられる。他方は、その人自身しか感じられない。両方とも存在感はある。私たちは、どちらの存在感を感じても、無意識に身体が反応します。たとえば、もっと知りたくなる。怖くなる。逃げたくなる。あるいは好きになったり嫌いになったりする。同時にその感情と一緒にそのことを記憶する。それで、それがあると感じる。ここは同じです。しかし、だれとも共有できる物質的存在感と、人間の内面にあるものを感じる存在感とは、明らかに違う。その違いを人間は、客観とか主観とか、外界とか内面とか、現実とか心の中とか、言うようになったのです。

拝読サイト:映画『CUBE』

拝読サイト:カント『純粋理性批判』批判のための10

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哲学の間違い

2007年11月28日 | x3存在はなぜ存在するのか

私たちは、他人の態度を見たり言葉を聴いたりして、その人の内面を認識している。それは無意識に自動的にしてしまう。「私は不幸だ」と言って、泣いている人を見ると、かわいそうな気持ちになる。彼女の目から涙が、はらはらと流れている。私が涙を流したときは本当に悲しい経験をしたときだった。その感じを思い出す。それで、この人も悲しい気持ちになっているらしいな、と感じる。タマネギの汁が目に入って涙が出ているとは、ふつう思いません。本当は、タマネギなのかもしれない。ハンカチにタマネギの汁をしみこませて顔に近づけ、泣いているふりをしているのかもしれません。天才的に演技がうまい人なのかもしれない。彼女の涙が本物かどうか、彼女の言葉が本物かどうか、本当のところは分からない。でもその涙を見て本物だと思い込み、彼女の悲しさを感じる私の気持ちは本物です。彼女の中に本当に悲しみがあるかどうかには疑いがありますが、私の中には、疑いなく悲しみが発生している。

私の前で涙を流している人は、本当に悲しいのか? その人の脳の中に、本当に悲しさが存在するのかどうか? 当たり前の話のようでもあり、神秘的な話でもあるような気もする。こういう質問の意味は、実は、はっきりしません。形は立派な質問文で、だれもがそういうことを言いそうだし、それを言うときの気分はかなりはっきり分かる。しかしこの質問は、実は意味がはっきりしていない。というか、(拙稿の見解では)無意味と言える。これは哲学的な質問だからです。こういう質問には、気をつけなければならない。こういうことを無邪気に質問してしまうところから、哲学の間違いが始まる。間違った哲学に惑わされたくなければ、この質問はしてはいけない質問の類です。(拙稿の見解では)こういうことを神秘と思うことから、哲学が間違っていくのです。

拝読サイト:タマネギ入り

拝読サイト:ウソをつく人

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架空の田村さん

2007年11月27日 | x3存在はなぜ存在するのか

Cranach_adam_e3 通勤バスの中で携帯電話を使っているビジネスマンがいます。携帯の使用は禁じられているのに、困った人です。「田村さんにお願いしてもよろしいでしょうか。お願いしますよ。はい。はい」と言っている。いかにも、よくありそうなビジネスの話をしているらしい。電話の向こうに田村という人がいるようです。男か女かは分かりません。でも、ビジネスマンの態度やしゃべり方から、間違いなく田村さんは、どこかの会社で電話を取っているのでしょう。こういうとき、田村さんなる人物は存在している、と私たちは直感で感じています。

ところが、よく見たらその男は携帯電話を持っていなくて、空手で電話するふりをしていました。迫真の演技です。手元をよく見なければ、だれでも彼が携帯電話を使っているとしか思えません。しかし、それが分かった瞬間、私たちは気持ち悪くなって、そのバスから逃げ出したくなる。その男が、頭がおかしくて、架空の相手と話していることがはっきりしたからです。もう、田村さんは存在しない。つまり、私たちにとって「田村さんが存在する」ということは、こういうことなのです。

もともと、バスの中で携帯電話の使用が禁じられている理由は、相手が存在しないようにも思えるような会話を近くの人がしていると、私たちが不快に感じるところから来ている。乗り物に乗り合わせた見ず知らずの他人には、もしかしたら頭がおかしいかもしれないと思わせるような行動は、なるべくして欲しくない。不安になってしまいますからね。

拝読サイト:田村のこだわり

拝読サイト:公共交通機関内の携帯通話、喫煙

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見たり触ったりできない

2007年11月26日 | x3存在はなぜ存在するのか

同じように、人間は他人の心も感情も感じる。目と耳で、人のその表情や動作や声を見聞きして、その人の内面を無意識に直感的に感じ取るのです。目に見えない他人の内面で動いているらしいそういうものたちもまた、客観的に存在するかのように感じられる。その存在感を心と呼ぶ。心といえば、あの存在感のことか、とだれにでも通じる。自分以外の人間のだれとも、その存在感を共有できるからです。しかも人間にとっては物質よりも心のほうが心に響く。つまり心が一番大事です。

しかし、そういう他人の内面は、直接目で見たり手で触れたり、カメラで撮ったりはできない。つまり他人の表情や運動や言葉など、外側に出てくるものを見聞きした自分の視覚と聴覚からの情報で間接的に感じるほかはない。直接手にとって見たり触ったりはできない。つまり本当のところはよく分らないのです。人間は、他人の運動を見聞きして、自分の運動と感覚を無意識に自動的にそれに共鳴させるけれども、それは完全にはできない。他人の感覚を、大体は共感できるけれども、完全に共感することはできない。ここは重要なところです。

拝読サイト:俺だけの感覚なのだろうか・・?

拝読サイト:『透視せよ!タケオ』

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