哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人生の仕組み

2010年04月30日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

この短編を読んだ人は、蟹の人生について何がしかの感傷を持つことができる。蟹は猿がしたことを恨んだから復讐した。蟹たちは、自分たちの復讐行為は正義だと信じていたでしょう。しかし裁判所は蟹がしたことを悪事と見なしたから死刑にした。意外と現実はこんなものだ、リアルだなあ、とも思える。人生の不条理を感じる人もいるでしょう。

いずれにせよ、ある者がある事をした行為について、それを他の者が記憶していて、それに対応して何事かをしかける。特に私たちの関心を引き付けるのは、ある者がした行為に対して仲間の皆が集団的にある態度を取って反応する場面です。社会のモラルというか、空気のようなものです。その人の行為を、皆が記憶していて集団的社会的にそれに対応した行為を返す。この形をとって裁判所は蟹を死刑にした。

人間が語る物語はこういう形をとって語られる。拙稿としては、この形に、人生の秘密がある、と言いたい。私の人生とは、私のものというよりも、他人のものであり、むしろ社会のものである、という仕組みでできているのではないか?

拝読ブログ:モラルハザード

拝読ブログ:生産カンスト

コメント

猿蟹合戦

2010年04月29日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_veiledcircassianlady

芥川龍之介は、『猿蟹合戦』という題で短編を書いている。小説家は、猿に復讐を遂げた後、死刑になった蟹とその一族の顛末を書いた。

著作権はもちろん時効になっているから書き出し部分を抜粋しましょう。

蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に、怨敵の猿を殺したのである。――その話はいまさらしないでも好い。ただ猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどう云う運命に逢着したか、それを話すことは必要である。なぜと云えばお伽噺は全然このことは話していない。
 いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。
 しかしそれは偽りである。彼等は仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、ことごとく監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵等の共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこう云う彼等の運命に、怪がの念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。(一九二三年 芥川龍之介『猿蟹合戦』

拝読ブログ:昔話知らない子供たち

拝読ブログ:検察官と寝た裁判官のトンデモ死刑判決

コメント

近代哲学の創始者

2010年04月28日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

ドラマの主人公に感情移入する場合について、近代哲学の創始者の一人である大哲学者はこう書いている。かわいそうな幼い王子様のドラマが成り立つためには、王子はかわいそうでなければいけないが、その囚われの王子がかわいそうなのは、自分が囚われていることに気づいていない幼児の視点ではなく、その子供の将来が過酷な運命にあることを知っている観客の視点ではじめて感じられることである(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム人性論既出)。王子の人生の意味を知っているのは王子自身ではなくて、客観的な観察者としての観客だということです。

ここは、拙稿の見解からしても重要なところです。自分の人生というものは、それが自分の人生だと思うから意味がある、というものではない。だれの人生であろうとも、まずそれを遠くから眺める観察者の視座から見たときに意味がはっきりするものだ、ということです。むしろ、自分でない他人の人生に、はっきりした意味があるから自分の人生にも同じように意味がある、といえる。

拝読ブログ:裸の王様

拝読ブログ:子どもがなりたい職業 人気ランキング

コメント

うらやましい人生

2010年04月27日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_unmarchanddarmesaucaire

人生も、だれかが、他人の視点から、それ全体を見通さなくては人生とはいえない。この場合、自分自身が他人の目になって自分の人生を見通すこともできる。しかしいずれにしても客観的な普遍的な他者の視点で見通すことが必要です。

この人生は、生きた甲斐のあるうらやましい人生だな、とか、無意味な哀れな人生だったな、とかいう冷静な評価が必要です。それは他人による、あるいは少なくとも他人になり代わった自分による、客観的な評価でなくてはならない。そういう客観的なものとなって、はじめてそれは人生といえるわけです。

拝読ブログ:「たられば」の人生が成功してたとは限らない・・・そして不安について

拝読ブログ:驚異的おばあと生きがい

コメント

自分は他人のものである

2010年04月26日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

自分の人生というものは、自分という個人に付属している個人的なものである、と私たちは思っている。しかし拙稿の見解では、自分の人生は自分のものというよりも、むしろ、はじめから他人のものである。正確に言えば、それを一個の人間の人生であると他人が認めてくれて、はじめてそれは人生として成り立つ。

芥川龍之介『或阿呆の一生一九二七年 )』にしても、それを読む読者がいるから小説として成り立つ。龍之介がそれを書いて、そのままゴミ箱に捨ててしまえば、その小説は存在しない。完璧主義だったらしいこの作家ならやりかねない、と思えます。そうなってしまえば、フィクションの主人公である「或阿呆」氏も存在しないことになる。小説家が書いたものは、その後私たちが読者になって、それを他人の目で小説として読まなければ小説にはならない。

拝読ブログ:誰にも利用されない 誰にも頭をさげない 一個の人間でありたい

拝読ブログ:晩御飯、まとめてアップ

コメント