哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

ありふれた行為の起源

2010年02月28日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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私たちは家を出ると、目的地へ向かう。その日にすることの目的を持っている。明日しなければならない目的を持っている。来年までに達成したい目的を持って、今日すべきことをしている。そう思って、いつも行動しています。

しかしこれは、実は逆であって、私たちの身体がそれを目的に行動しているように動いているから、私たちはそれが自分の行動の目的だと思っているのではないか? 私たちは、それを目的に動いているように見える自分を見て、それが自分の目的だと思い、その目的を目的と思うから、そこから意識的にそれを目的とする行動をするようになるのではないか? 拙稿の見解では、そういうことになります。

家を出て、たとえば、学校に行く。学校に行く、という行為は実はどういうことなのか?実にありふれた行為ですね。しかしそれがありふれた行為であればこそ、私たちがありふれたこととしてそれをするという行為は、深く人間の身体に根ざしているからそうするのだ、と思われます。

そのような行為に伴う私たちの感情は、かつて原始人であった私たちの先祖が、その感情を伴う行為を実行することで、うまく生き残り子どもを生み育てることができたような行為に違いない。それであればこそ、現代人の私たちがその目的をどう思っているのかにかかわらず、その(たとえば、学校に行くという)行為は、過去の人間の生活環境において生存繁殖に役立つ行動から派生しているはずです。

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自分という他人の気持ち

2010年02月27日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちは、同じやり方で自分という他人のしている行為を予測することでその目的を推測し、それをしている自分という人間の気持ちを推測する。その推測した気持ちが、私たちが思うところの自分の気持ち、というものになっている。

私たち人間は(拙稿の見解によれば)こうして、自分の身体の動きを感知し、その身体がすることを予測することで(自己再帰的に)自分の気持ちを知る、という身体の仕組みを持っている。逆に言えば、私たちが自分の気持ちだと思っているものは、私たちが私たちの身体の動きを観察することで、私たちの身体がしようとしていると予測される行為あるいはその目的のことだ、といえる。

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読者のための案内

2010年02月27日 | 

    

 どの章から入っても読めます。飛ばし読みでも大丈夫。

 専門知識は要りません。科学用語や哲学用語は少しだけありますが、知らなくて問題ありません。

哲学的な発想に興味はあるけれど勉強は嫌い、という人にお勧め。筆者がそうです。

わずかな数の筆者自家製の造語がありますが、『拙稿のキーワード』としてサイドバーに索引があります。見なくても問題ありません。ひっかかる言葉があったら、「哲学の科学」の索引検索を引いてください。

やさしい書き方でも科学的に品質の高い内容は表現できます。哲学的内容も、ことさらむずかしい言葉づかいをする必要はありません。やさしい言葉のほうが、むずかしい内容を正確に伝えることができる、という拙稿の信条にしたがって、書かれています。

 

  最新版→『哲学の科学』の草稿版はブログ『哲学はなぜ間違うのか?』にほぼ毎日掲載。草稿はたいてい土曜日にまとめられて、『哲学の科学』に掲載されます。

  挿絵→ブログ『哲学はなぜ間違うのか?』には一回飛ばしくらいで挿絵がありますが、本文と何の関係もありません。クリックする必要なし。筆者の自己中な西洋古典画趣味の押しつけです。

プロローグ prologue

目次 contents

第一部 哲学はなぜ間違うのか   why philosophy fails?

1  哲学はなぜ間違うのか?   why philosophy fails?

哲学はなぜ負け犬なのか?

 言語を使って哲学を語ろうと思うことから、もう哲学は間違う。言語は哲学を語る道具ではなく、空気を読み合うための道具です。命とか心とか、自分とか社会とか、愛とか死とか、感情に訴える神秘的で深遠に思える人生上の問題を、言葉だけを使って語りつくそうとするから、哲学は間違えていく。

2  言葉は錯覚からできている  words are made of illusions

言葉は現実を語れるのか?

 言葉は現実を記述する道具ではなく、仲間と錯覚を共有するための道具です。たとえば「自分の命」あるいは「地獄」などという実体が脳の外には存在しないとしても、そういう錯覚の存在感を発生させ、仲間とその感情を共有して集団行動に結びつける脳の機能は、人間が子孫を残すためにとても役に立つ。

3  人間はなぜ哲学をするのか?  why do humans do philosophy?

哲学が謎であることは謎ではない。

人間が自分の人生を謎と感じるような脳を持っていること、その事実自体は、まったく謎ではない。人間は、世界が変化する原理を知りたがり、仲間の多数派の考え方を知りたがり、権威ある教えを身につけ、それを自分の行動に織り込んで集団として効率よく生活していくような脳を持っている。

4  世界という錯覚を共有する動物   animal sharing an illusion of the world

人間は、世界が存在すると錯覚する動物である。

人間の脳は、仲間の人間集団の運動に共鳴する神経回路を働かすことで、世界があるように共感する仕組みを持っている。人間は、言語以前に仲間と共鳴共感することで世界の存在感を獲得していてそれが言語の発生を導いた。自然科学の描くような物質世界はもともと存在しない。もちろん、目に映るこの世は存在しない、命は存在しない、心は存在しない、意識、苦痛、幸福というものは、実は存在しない。自我とか自分というものも、やはり存在しない。私は存在しない。死は存在しない。存在は存在しない。そして、それら存在しないものが、なぜ存在しているようなのか? なぜ存在しているように思えるのか? それは現代の科学知識だけを使っても、ある程度見分けることができる。そしてそれを知ることはちっとも怖いことではない。

5  哲学する人間を科学する  science of doing philosophy

世界があると錯覚する人間の身体構造を科学する。

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そして自分の目的を知る

2010年02月26日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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ところが実際、私たちはそうは思えない。私たちは自分の気持ちというものを持っているとしか思えない。それは、まわりの仲間たちが、私の気持ちというものが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、という気もするが、そればかりではない。私は私が自分のことをどう思っているのか分る。 私が何をしたいのかわかる。何をしなければならないのかが分かる。私は自分の気持ちが分かる。

それは、私たちが、いつも、自分の行為の結果を予測しているからです。私たちは人の行為を見て、その人の目的を推測するように、自分の行為を見て、またそれによる自分の体内の反応、あるいは自分の感情、を感じとって、自分の目的を推測している。自分というものを、目的を持って何かの行為をするものである、というモデルを使って、自分の行為の結果を予測している。それで、私たちは自分の気持ちが分かる。

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宇宙が広すぎてさびしい

2010年02月25日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分の気持ちが人に伝わらないという問題もありません。社会に疎外されるという問題もなし。宇宙が広すぎてさびしいという問題も起きてこないでしょう。

私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。しかし私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分がどうすればどうなるかとか、どうなったらどうすべきか、などと考える必要がない。自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、考える意味がない。心配事がまったくなくなるわけです。まことにけっこうなことです。

拝読ブログ:Recherchez l'étoile Je suis fatigu醇P beaucoup

拝読ブログ:強大な疎外感、今そこにある現実

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