現代文明はその機能が極度に発展しているため、私たちの感じる現実の客観性はまったく疑いようがないように思えます。私たちは、自分の目で見える身の回りの物事が実際に客観的に存在している、と確信していますね。それは全く当然としか思えません。しかしそれは(拙稿の見解では)文明がもたらした現代人特有の自我意識の産物です。
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現代文明はその機能が極度に発展しているため、私たちの感じる現実の客観性はまったく疑いようがないように思えます。私たちは、自分の目で見える身の回りの物事が実際に客観的に存在している、と確信していますね。それは全く当然としか思えません。しかしそれは(拙稿の見解では)文明がもたらした現代人特有の自我意識の産物です。
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仲間と共有する認知経験が、このように私たちの現実感や物事の存在感の基礎になっていますが、この仕組みは自覚できません。私たちは、単に、物事が客観的にそこに存在している、としか感じません。人類の文化が発展し、文明が発達するほど、現実の客観性は強くなっていきます。高度な文明社会の中で育つ現代人は、仲間の存在とは関係なく、むしろ自分一人で物事を客観的に見て取っていると思い込んでいます。客観的現実というものは当然、そういうものであるはずです。私たちは、客観的現実の中に自分が置かれているから、当然に、自分が周りの現実を感じ取っているのだ、と思い込んでいます。人類の文化も言語も文明も、すべて、人間どうしがこのような現実認識を共有していることを繰り返し互いに確認しあうシステムとしてできあがっているからです。
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このような運動共鳴により仲間の視線が自分の視線と重なり合ってその物事を見ている。その仲間の表情や身体の反応を見れば、仲間が感じている感情がよく分かる。仲間と一緒に自分はその感情にぴったりと共鳴できている、と感じられる。むしろ、自分と仲間の区別はなく、一体化した感情、あるいは空気のようなもの、を感じる。こういう場合に、仲間とともに感じ取っているその物事は確かに、客観的な現実として存在している、と感じられます。そのとき自分がその存在を感じ取っている、あるいは仲間とともに感じ取っている、という意識はあまりなく、ただ単にそこにその物事が客観的に存在している、と感じられます。これが、客観的現実を感じとる人類特有の現実感覚の起源でしょう。
しかしこの前段プロセスが起こっただけではその存在感には言葉が伴っていません。そこから後段プロセスがはじまって「××が存在する」という言葉が作られる。つまり存在が言語化される。それはどういう仕組みになっているのか?
後段の認知プロセスでは、私たちは仲間の人間と一緒に物事の客観的な存在を共有します。原始人類に言語が発生した過程では、(拙稿の見解では)実際にそばにいる仲間の動作や表情、特に視線の動き、に自分の視線コントロール(体軸の姿勢変更、顔の振り向けと動眼運動の組み合わせ運動)の運動形成を共鳴させて同じ物事を同じように見とっているという(運動共鳴による)身体感覚を感じとることで物事の存在を認知していたと思われます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。
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前段プロセスで私たちの身体がある物事の存在感を感じ取ったとしましょう。それを感じ取るということは(拙稿の見解によれば)私たちの身体の状態が変化しているということです。たとえば、リンゴの存在を感じ取って唾液腺が興奮状態になるというような例です。そのような身体の変化が(前段プロセスにおける)リンゴの存在感である、といえます。逆に、このようなプロセスが起こっていなければ、はっきりとリンゴが存在しているとはいえません。つまり存在の認知に関するこのような前段プロセスは、その物事が存在するための必要条件である、といえます。
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