「~する」という図式の言語を使って語り合っている限り、私たちの科学も哲学も世間話もすべての議論は、私たちの身体のつくりに依存した人類限りのこの現実世界の内部でしか通じない、と言わざるを得ないでしょう。
私たち人間は、物体が加速されるとき(たとえばリンゴが落ちるとき)、あるいは物事が変化するとき、それを感じ取るのに、「~する」という図式の言語を使う。その物が私たちの仲間であるがごとく、その物がその内部に私たちと同じ感情を発生しているがごとく、その物が意図をもってその運動を加速しているがごとく、私たちの身体は感じ取る。
「する」とは何か? それは私たち人間にとってのすべてである、といえます。
(26 「する」とは何か? end)
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