哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

脳の具体的メカニズムの解明はまだまだ

2007年01月31日 | 2言葉は錯覚からできている

Hatena23_1 たとえば幼稚園児が芋虫をつついて「あっ、生きてる!」と叫ぶとき、つまり「命」という抽象語が表わす錯覚の存在感が活動しているときの脳の神経回路の仕組みは、よく分かっていません。網膜から視蓋に視覚信号が送られ、それが動眼神経を活動させて、瞳孔を開き、まぶたを全開して目を見開く。同時に視覚信号は視床外側膝状体に送られ、さらに扁桃体前部帯状回側坐核が活動し、脳幹から自律神経系に信号が送り出されて顔を赤くし、鼻孔が開く。並行して視覚信号は大脳皮質視覚野に送られて画像処理され、最後に大脳頭頂葉小脳側頭葉が活動して言語を形成し発声する。同時に、前頭葉から逆向きに神経信号がまた何度も戻っていく。こういう信号の流れはだいたい分かっていますが、それらがどう相互作用して認識を作り、「命」という存在感を作り、それから「生きている」という発声運動を形成し、その記憶をどう作っていくか、具体的な神経回路の活動メカニズムは全然分かっていません。

ここではわざと難解な脳の解剖用語を羅列してみましたが、筆者は脳科学や医学の専門知識をふりまわしたい用語マニアというわけではありません。こういう書き方をすれば脳内の神経信号がいかに複雑に処理されているかをイメージアップできるかなと思ったからです。問題は、この難解そうな名前がつけられている複雑な脳の各組織のさらに内部で行われているはずの微細で具体的な信号処理の中身が、現代科学では、まださっぱり分かっていない、もちろんその微細機構の医学用語など作られていない、ということです。

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脳をはっきりと観察するために

2007年01月30日 | 2言葉は錯覚からできている

さて、ようやく本題に戻ります。

ここで定義しなおした「錯覚(以下、括弧は使わない)」という見方を使えば、人間が感じる物事をはっきりと、錯覚でしかないものと、錯覚ではない物質に関するもの、とに分類できます。人間が使う言葉では、錯覚でしかないものと、きちんと物質現象に対応しているものとが混在しています。ふつう、日常言語では、錯覚でしかないものが多く表現されています。錯覚だからいけない、ということではありません。それらの言葉は人間関係を適切に言い表し、社会、経済を作り出し、人生を豊かにする、実用的で重要な道具です。一方、きちんと物質現象を表現している言葉は、科学論文などに多い。ただし、こちらも物質現象を述べているからすばらしい、ということではありません。価値の低い科学文献は実に多いのです。

拙稿では錯覚という言葉に、だから良いとか、だから悪い、とかの価値観は含ませていません。脳の中で起こることをきちんと分類して、はっきりと観察するために、言葉遣いを改めただけです。

脳が作り出しているこれらの錯覚の仕組みは、将来いつかは神経細胞(ニューロン)一個一個のレベルから発生、分化と進化のメカニズムまで、すべてのレベルで解明されるでしょう。それは残念ながら、現代科学ではまだまだ無理です。観測技術も理論解析もまだ発展途上だからです。脳の各部分にある神経細胞のネットワークがそれぞれ何か信号処理をしているらしい、としか分かりません。

拝読ブログ:メモ:唯物論について

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荘子哲学、もののけ、アニミズム

2007年01月29日 | 2言葉は錯覚からできている

拙稿の言葉遣いでは、「この世はすべて錯覚、夢幻のごとくなり(荘子哲学?)」とまではいきませんが、私たちの感情を揺さぶる、私たちが毎日そのために生きていると思っている物質ではない大事な物事たちはすべて錯覚、となるわけです。

人生は錯覚、幸不幸も錯覚、生死も錯覚です。お金も錯覚、会社も錯覚、お偉方の威厳も錯覚ですね。まあ、そんなことを書いている筆者自身の心も錯覚、この拙稿の中身も錯覚、ということです。言葉遣いを少しずらしただけで、ずいぶんとニヒルな感じになります。まあ、ここは(荘子哲学というよりも)現代科学の底にある虚無のようなものが表れているともいえる。なぜそうなるのか、それで大丈夫なのか、ということについては、だんだんと詳しく話しましょう。

なお、ここで簡単に述べた錯覚と世界の認識という問題は、西洋哲学では、主観と客観という観点から、古来の存在論認識論から始まって近代の観念論唯物論現象学から現代哲学にいたるまで哲学のメインテーマの一つとして議論されています。これらの伝統的哲学と拙稿とは、先に述べたように方法論が違うのでかみ合う関係ではありませんが、互いの位置づけを比較して分析する議論を展開しようとすればできないことはありません。しかしながらそうすることは、いわゆる哲学用語をちりばめた文章を書くことになり拙稿の趣旨にそぐわないので、あえて展開しません。

ちなみに物質と錯覚の存在感に関して、筆者の言葉遣いとは少し違いますが、昔の日本人は言葉を言い分けていたようです。たとえば、物質や人間のように存在感がはっきりしている対象を「もの(物,者)」と言い、筆者のいう脳内だけの錯覚のように存在感が物質的にはっきりしない対象を「もののけ(物の気)」と言ったようです。昔の人が言った「き、け()」とかは、空気とか息(生き)の「き」ですね。「気持ち」とか「気を失う」とか「気が付く」、「気が狂う」の「き」、眠気や色気の「け」とかいう言葉から推測すると、心や意識に当たるものを特に「気」と言ったようです。英語のアニマルとかアニミズム(霊魂信仰)とか日本語(?)のアニメとかの語源になっているラテン語アニマは、空気、息、魂、生命という意味です。アニマルというのは息をしている「息物、生き物」のことだったようですね。日本語の「気」にぴったり対応していておもしろい。

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日常言語の問題点

2007年01月28日 | 2言葉は錯覚からできている

ちなみに、存在感という感覚は大脳皮質よりもその奥にある辺縁系基底核、特に扁桃体側坐核のあたりで生じるようです。大脳皮質で作られた認知情報の信号が、辺縁系と基底核に送られて起きる神経興奮、が存在感に対応するものでしょう。大脳が発達していない動物は、たぶん嗅覚などの感覚器官から直接入力する信号に反応して目の前の物質環境に対応する存在感(にあたる感情)を作る。人間は、感覚器官からの直接入力信号も使うが、それと同時に反射や連想によってシミュレーションから大脳皮質が作りだす信号にもおおいに反応して、目の前のものばかりでなく、次の瞬間のそれらの変化予想、遠い将来の予測や、現在は目に見えないものに対応する存在感、などまでを感知する。という具合なのでしょう。

つまり、人間は身の回りの物質の認知そのものからして錯覚と同じ脳内機構を使っているのです。錯覚を作り出すこの脳内機構がなければ、私たち人間はこの物質世界をこのように見渡すこともできないでしょう。

人間は、現実の物質世界を認知する場合も、物質とは対応しないものを感じる場合も、どちらも同じ脳内情報処理機構(たぶん大脳皮質と辺縁系基底核)を使っています。どちらも存在感を伴って感じられ、それを人間どうし共感できるものではあっても、物質世界は誰の目にも見えるのに対し、物質に対応しないものは本人が感じ他人と共感できる存在感だけがあって、自分の目にも他人の目にも見えません。

筆者の言葉遣いでは、前者を物質世界の存在と言い、後者を脳内だけの錯覚、と言うことにしています。まあふつうの言い方とそれほど違わないでしょう? ただ、ふつうの言い方(日常言語などという)の問題点は、この二者をしっかりと区別しないで言葉を使ってしまうところです。そのために、たとえば、物質としての脳と物質ではなく脳内の錯覚でしかない心とを、混同してしまいます。それは、実用的には悪いことではありませんが、そのままで科学や哲学などを語るとおかしなことになってくるのです。

拝読ブログ:幽霊は存在するのか

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うまく使えればそれが現実

2007年01月27日 | 2言葉は錯覚からできている
Hatena22

このように立体感覚と時間感覚の存在感を作る脳の運動シミュレーション機構は実に便利です。これがなくてはサッカーもできず、ご飯も食べられません。目の前に、運動物体のすべての情報、すなわち百分の一秒ごとの時刻を印字した立体写真に使う二枚のずれた写真を時間順にずらっと並べてくれても、実物かその動画を見せてもらえなかったら、私たちは時間的に変化するリアルな立体感を感じられないでしょう。

人間は身体を動かすことで対象物の存在感を感じ取ります。完全に静止した光景は静止画なのか現実の物理現象なのか、なかなか区別できません。そこで人間は、無意識のうちに、顔や身体を動かしたり手で触ったりして立体感が感じられるかどうか知ることで、目に映った光景が現実のものかどうかを確かめます。その身体運動全体の感覚が、いつも経験しているようなしっくりした存在感をつくるとき、その存在感が錯覚でなく現実にあると感じるわけです。実際に身体を動かさずに脳内の運動シミュレーションでも、この現実感覚は作り出せます。脳内で作るバーチャルリアリティともいえるこの情報処理が、錯覚を作り出していると考えられます。

人間が物を見ているときは、常時、このように視覚信号の処理の過程で運動シミュレーションを使った存在感が形成されています。視覚に限らず、五感の認知の過程ではいつも運動を伴う存在感が使われています。

つまり、脳が物質世界から受け取る感覚信号はすべて、意識される前に、運動シミュレーション用の空間環境データに変換されていることになります。しかしその結果が総合されて作られる物質世界の脳内イメージは、人体の進化のおかげと、さらに生まれた後の赤ん坊時代からの学習によって、上手に現実の物質世界に対応していくようになっています。こうして、多くの錯覚を統合して脳に捉えられる総合的な物質イメージは強い存在感(拙稿の用語法では、現実感と同義*)を持ち、目の前の物質の変化ときちんと精密に対応していますから、錯覚ではない、という言い方をしてもよいでしょう。脳の中でどんな具合に錯覚が作られていようとも、それを使ってうまく身体運動ができていけば、人間にとってはそれで十分です。それが人間の言う現実、というものです。拙稿では、この後、誤解の恐れがない場合は、物質ときちんと対応する存在感は錯覚と言わずに、そのまま物質の存在、と言うことにします。

*新明解国語辞典:「存在感」;

1  その人が ただ そこに居るだけで、独特の持ち味〔=得難い人生経験や重厚な人間性、揺るぎ無き信念など〕に つい引きつけられる感じ。

2 独自の存在理由をもって、そこに、まぎれも無く存在しているのだという、確かな実感。 (←拙稿の用法)

拝読ブログ:Second Lifeのビジネスモデル----CPUの作り出す「もう一つの地球」はハッピーか

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