哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

身体が一つだから現実は一つ

2009年04月30日 | x9私はここにいる

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さて、またここで、前にも述べたこと(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)をくどくど繰り返しますが、それは私たちがよほど気をつけないと、すぐ忘れてしまうことだからです(というか、筆者が年を取って忘れっぽくなったからかもしれないが)。

現実は、私たちが思っているように、たった一つ存在するというものではない。いくつも存在するともいえる。あるいは一つも存在しないといってもよい。現実というものは(拙稿の見解によれば)私たちの身体が、生存と繁殖に便利なように脳を使って私たちの前につくり出すものだからです。ただし、私たちの身体は、現実がただ一つだけ存在するように感じる。身体が一つだから現実は一つになっている。人間の身体はそうできている。

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現実=身体の仕組み

2009年04月29日 | x9私はここにいる

たとえば、身体が弱っているとき、あるいは状況がひどく不利な場合、自己中心的な現実(現実2)を感じとって、世界に不信感を感じて(ひがんだり、ひねくれたりして)身体ごと縮こまるほうが、生存繁殖のためには、よかった。身体が強いときは、世界は自分の味方に決まっていると楽観して、客観的世界の現実(現実1)の中へ乗りだして、自分の身体を、客観的な物質とみなして道具のように操作して、攻撃的な行動を取ると、生存繁殖に有利だった。また、人間関係が重要な社会では、自他の気持ちを最優先の現実(現実3)と捉えて、仲間の発言や表情に敏感に反応して行動を選ぶことが、生存繁殖のためには、重要だった。つまり、私たちがおかれたそれぞれの状況に対応して、私たちの身体は、私たちの身体の生存繁殖に(かつての人類の生活環境においては)有利であった努力をしたくなるような現実が現れてくるような仕組みになっている。

ただし、私たちの身体のこの仕組みが、過去の時代の生存繁殖に有利であったからといって、現代人の私たちがいまそうすべきかどうか、は別の問題です(一七八八年 イマニュエル・カント実践理性批判』既出)。それは、私たちが自分というものを、そして人生というものを、どう考えるか、という(もうひとつのむずかしい)話になる(拙稿16章「私はなぜ幸福になれないのか」拙稿17章「私はなぜ幸福になれるのか」)。

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「哲学の科学」をはじめから読む

2009年04月29日 | 

 このブログ『哲学はなぜ間違うのか?』は別掲のブログ『哲学の科学』の草稿版です。一週間後くらいに編集して同内容を『哲学の科学』に掲載しています。『哲学の科学』をはじめから読む場合は、以下のプロローグから入って、その下の目次に進んでください。リンクでどこへでもいけます。





                                 哲学の科学

                                                   

   

???

プロローグ 

 全知全能で、しかも全裸の女神が、突然あなたの前に現れました。

「質問してみて! 私は知性の女神ハテナ。 この世で一番知りたい謎はハテナーニ? どんなに難しい質問にも答えてあげるわよ?」

と言っています。あなたは何を質問しますか? 

あなたは目をパッチリ大きく開いたきり、何も言えません。やっと口が動きます。

「あなたは誰ですか? 裸で寒くないですか?」

 しまった。もう少しましな質問をすればよかった、と後悔します。

 ハテナは、さすが知性の神様です。全裸のままなのに恥ずかしげもありません。赤ちゃんと神様は、何かを着る必要がないのです。堂々とフランス人がよくするように、大げさに両手を広げました。首をかしげてからさっきと同じ言葉を繰り返します。もっと難しい質問が欲しいのでしょうか?

 まだ質問の権利はなくなっていなかったようです。今度はすこし落ち着いて、あなたはたぶん次のような事を聞くでしょう。

―なぜ私は楽にお金を儲けるとか、もうちょっとハッピーな人生を送れないのでしょうか? そういう人がたくさんいるのに!

―なぜ、こんなできの悪い私がこの世にいるのでしょうか?

―私はこのまま死ぬのはいやなのですが、やはりこのままで死んでしまうのでしょうか? 死んだら、どうなってしまうのでしょうか?

―こういう神秘的な謎を、人間は永久に解くことができないのでしょうか?

どれも難問です。人生の謎ですね。ハテナ女神は、なんと答えるでしょうか?

こういう類のいわゆる人生の神秘的な謎に答えるのが哲学だ、ということになっているようです。一般にはそう思っている人が多いでしょう。筆者も若い頃はそう思っていました。有名な哲学者の著作を読んで理解すれば、この世の謎や自分の人生の意義について何かが分かると思っていたのです。

しかし残念ながら、それは間違いでした。

この間違いを見抜くためには、ある程度の人生経験と、やや老練な観察眼が必要なようです。筆者は年をとってきたおかげで、この頃やっとこれが分かってきました。

現在の筆者の考えでは、冒頭に挙げたような、大昔からこの世のもっとも神秘的な謎と言われ続けてきた疑問は、実は謎ではありません。

しかも神秘的でもありません。

こういうことを疑問に思うこと自体が、間違いだったのです。

昔の偉大な哲学者たちは難しい本を書きました。人々を悩ませる神秘的な謎を解決しようと懸命に考え抜いていると、難しい文章になってしまうのでしょう。

それで結局、誰もちゃんとした答えは書けませんでした。

なぜでしょうか?

それは、人々を悩ませるそれらの難問が、神秘的で難しいから答が出なかったのではなくて、そもそも問題にすることが間違いだったから答が出なかったのです。

だから全知全能で全裸のハテナも、こういう質問には答えられません。「その質問は、質問になっていないわ?」と、言ってくれるかもしれません。あるいは全裸のまま、もう一度大きく両手を開いて、にっこり笑うだけかもしれませんね。

昔から哲学の問題になっているこの世の神秘的な謎は、実は、はじめから問題になっていないのです。だから解けない。だから哲学の問題になっている。

こう言うと、世界中の哲学の先生から筆者の頭をめがけて、重くて硬い本が飛んできてボコボコに打ちのめられそうです。でも、哲学を否定することも哲学の仕事だということは、本物の哲学者ならよくご存知でしょう。

二十世紀の初めごろから、ヨーロッパではこの問題に気づいた新しい哲学者たちが出てきました。フッサール、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、メルロポンティ・・・。現代哲学の開祖として哲学史に名を連ねるいわゆる大哲学者たちです。それまでの間違った哲学を立て直そうとして、彼らは言葉から作り直しました。

数学のように厳密な論理に基づいて、言葉を基礎から定義しなおし、新しい哲学の本を書きました。しかし、素人にはよけい分かりにくくなった。人工的な新語を作って厳密に説明するわけですから、ますます難解になってしまうのです。

人々は、「どうも昔の偉大な哲学者の本を読んでも、趣味として難解な哲学語を楽しむだけになってしまう。じゃあ現代の哲学者はもう少しましなことを言っているかと思ったら、数学みたいに、分かってもしようがないことばかり研究しているみたいだ。しかたないから哲学とかには関わらないようにしておこう」、と思うわけです。哲学は、真っ向から間違いだと指摘されることはありませんでしたが、頼りにされなくなりました。インテリ風のスノビズムと思われ、結局は人々から見放されていったのです。実際、筆者もそう思って、若い頃買った哲学の本は本箱の隅に押しやっていました。

その後、科学の文献ばかり読んできました。

ところがこの十数年ほどのごく最近の科学の流れの中に、古い哲学の問題に新しい展開を与えられそうな思想が芽生えてきていることに気が付きました。

特に生物科学、脳神経科学、それに行動科学、認知科学、システム工学などの先端研究です。それらの研究者の中には、自分達の研究の延長上に哲学の伝統的な難問へのヒントが横たわっていることに気づいている人たちがいます。そのうちのさらにごく少数ですが、部分的に拙稿の発想と似た考えを書いている人もいます。ただ、残念ながら、それらも断片的なヒントです。なかなか、まとまった学説にはならないようです。既存の専門分野を再整理して、新規の学問分野を作り上げるところまではいかないのでしょう。

そもそも学者という職業は、できるだけ狭い専門分野の看板を掲げることで社会的な信頼を獲得しているところがあります。たぶんそんな事情からでしょう。哲学を生物科学やシステム工学の観点から見直して、根っこから作りなおすという話は、文系からも理系からも、なかなか出てきません。

筆者は、哲学と科学の基礎に関する自分の理解を整理するために、すこしまとまった文章を書きたいと思っていました。そこでこの際、右の観点でまとめることを目指して拙稿を書きはじめました。現役を卒業してしまった筆者はいまさら評判を気にすることもありません。拙稿は遠慮なくタブーを無視して、文系も理系もかまわず既存の学問の系譜からはみだしていきます。

拙稿の発想の出発点は、旧来の哲学への失望もありますが、むしろこれからの科学、特に情報科学、生物科学、脳神経科学、行動科学などの成果が、近い将来、このテーマの方向に統合されてくることへの期待です。

なぜこの世はあるのか? なぜ私はいるのか? これらは一番古い哲学のテーマですが、実は次世代の生物学の先端になるテーマだとも言える。つまり、なぜこのホモサピエンスという生物は、物質とか精神とか世界とか自我とかいうものについて、仲間どうし語りあうようなDNAの配列を持っているのか? 

生物の神秘、でしょうか? でも生物は物質でしょう?

生物科学の進展によって生物に神秘などないことは明らかになってきました。

残るは私たちホモサピエンスという脊椎動物の中枢神経系、つまり、脳の科学でしょう。

人体も脳もそれを構成する物質すべての分子構造までが明らかになってきている現在、ますます人間、そして自分、という存在の神秘を感じます。しかし物質のうちで人間の脳だけが神秘だとか、人間だけが世界の正しい姿を認識できる、などということがありうるのでしょうか?

こういう問題が、最近の科学の進展で、ごくわずかずつですが分かってきました。いわば哲学の科学(科学の哲学ではなくて)のようなものが、ほんの少しだけ見えてきたわけです。

もちろん、哲学の科学などという学問が現在あるわけではありません。筆者が今ちょっと思いついて言ってみただけです。

けれども楽観的に考えれば、これから数十年の科学の発展に支えられて、本当に、哲学の科学、のようなものが発展するかもしれません。それは哲学を変えると同時に科学自身の根っこをも変えていきます。現在の科学の根底になっている冷たい客観的物質世界を掘り返し、根をずっと深く人間個人の熱い身体感覚の中に下ろすでしょう。そこから、旧来の哲学が分裂させてしまった二つの世界、つまり物質と精神、を一つのものとしてつかみなおすことができるかもしれません。

拙稿では、それを人間集団の中での運動・感覚の共鳴と共感などをヒントにして論じていきます。筆者の興味の一つは、このような新しい科学の進展によって将来、人間どうしの不完全な相互理解を改善できる可能性です。もしそれが可能ならば、人類の心は、遠い未来のいつか、文字通りひとつになっていくのかもしれません。 

それがどのように予想できるのか、現在の私たちには、もちろんはっきり分かりません。全知全能で全裸のハテナも、両手を開いて「???」とにっこり笑うだけで、何も答えてくれません。それは現在、誰が予想してもきっと間違うでしょう。

それでも筆者は、それについて考えてみようと思います。   

                                                      

   

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生きているから現実

2009年04月28日 | x9私はここにいる

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いずれの現実も、その存在感を感じとりそれを利用して自他の行動の結果を予測する脳の機構によって現れる、といえる。私たちのその脳の機構は、原始時代、数十万年にわたる進化の積み重ねによって人類の生活環境での生存と繁殖に便利なように、つくりこまれてきたはずです。

そうだとすれば、私たちが目の前に見ている現実は、それが本当にこうあるからこうあるように見えるというよりも、こうあるように見えるほうが、私たちが、過去数十万年における生存繁殖の場で動物として有利に生存し繁殖する機会を得られたから、こうある。つまり、私たちがいまこういう現実の中に生きている、というよりも、私たちが(正確にいえば、私たちの遺伝子が)生き残るために便利な行動をつくり出せるためには、私たちはこういう現実の中に生きている、と感じるように私たちの身体がなっていることがよかった。私たちがこの現実を感じとってその中で生きている、というよりも、私たちが生きているからこれが現実なのです。

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科学<現実1<現実3<現実2

2009年04月27日 | x9私はここにいる

科学が描く物質世界は、私たち人間だれもが直観で感じとっている目の前のこの物質世界(現実1)を理論化したものです。科学が描く物質の理論はいつでもどこでも経験できる法則に従っている。科学的方法論と呼ばれる、科学者が共同で法則を確認する仕方で、科学の理論はつくられてきた。人間がだれでもいつでもどこでも経験できる物事は、私たちに強い存在感を与える。その物事は現実だ、と私たちは感じる。私たちが持つこの現実感覚によって、科学が描く理論的な物質世界は、客観的に存在できる。

これが、すべての科学の土台になっている。つまり、科学は、私たちがふつうに物質を感知する現実感覚(現実1)に支えられている。その客観的現実(現実1)は、先に述べたように自他感知世界の現実(現実3)に支えられており、さらにその自他感知の現実(現実3)は、自己中心的現実感(現実2)に支えられている。

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