哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

自分というモデル

2008年12月31日 | x9私はここにいる

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ここで重要なことですが、(拙稿の見解では)私たちが自分自身を客観的に感知する場合にも同様の仕組みが使われている。自分自身を意識する場合、拙稿の見解では、私たちは目と耳、つまり視覚と聴覚から来る情報に頼って他の人物を感知する場合と基本的には同じ神経回路を使っている。つまり、まず仮想の仲間集団に乗り移り運動共鳴の神経回路を使って、仮想の群行動として仲間集団の視線で自分自身を注目し、それによって自分自身の身体のイメージを作り上げる。

これにもとづいて、私たちは、自分というものの客観的な存在感を感知している。こうすることで、自分というモデルを作り上げて、それを客観的世界の中におき、まわりの人々とつきあい、同時に自分ともつきあっている。

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嗅覚が鋭い犬、あるいは人

2008年12月30日 | x9私はここにいる

犬など多くの哺乳動物は、目と耳のほかに鼻も大いに使って、他人(他犬)の感情を感知しているようですが、人間は嗅覚が鈍いので、鼻はあまり使わない。つまり、戸棚の奥に食べ物が隠されているとか、犬などが察知できるらしい目に見えない情報を、人間は察知できない。「あの人は嗅覚が鋭い」という比喩表現もありますが、これは、その人が(実際に鼻を使うのではなくて)目と耳だけで他人の隠された感情や意図を察知する能力が特に優れている、という意味でしょう。

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心を読むメカニズム

2008年12月29日 | x9私はここにいる

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さて、一方、私たちが他人の存在を感知する場合、(テレパシーは不可能ですから)自分の体内の体性感覚では他人の内部の感覚を直接感知することはできない。他人の内部の状態を推測するために、私たちは、身体外界から来る遠隔情報を受信する器官である目と耳を使う。視覚と聴覚で、その人の身体の動き、視線、表情、声色、呼吸音、足音などを感じ取ります。そこから、(拙稿の見解では)自分の脳内でその人に憑依して、その運動を自分の運動形成神経回路を使って逆シミュレーションを行い、その運動を形成する運動指令信号を再構成して、それにそって仮想運動のシミュレーションを起こすことで自分の運動を他人の運動に重ね合わせて、なぞる。

こうすることで、私たちは、注目するその人の運動を予測する。同時に、自分の仮想運動信号が自分の自律神経系や運動神経系を伝わることで引き起こされる心臓血管系や筋肉、分泌腺などの微弱な緊張から体性感覚にフィードバックしてくる感覚信号を捉えて、その人の内部の状態、つまりその人の感情、気分や気持ち、意志や意図のあり方を感じ取る。この仕組みで、その人がどういう感情や意図でどう動いていくかを予測する。つまり、私たちは(テレパシーは不可能なので)目と耳で人の運動を読み取って、それを自分の運動神経系と自律神経系を介して自分の身体に反映させることで、他人の心を読み取る。その仕組みで、その人の存在感を感じる。

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自我意識の座

2008年12月28日 | x9私はここにいる

自我意識の座

ちなみに、最近の脳画像観測の研究成果によれば、人間の脳では、何もしていない休息時には、頭頂から後頭部を結ぶ頭蓋中央線にそった大脳表面領域とその深部で神経細胞の活動が活発になる(二〇〇八年 パトリック・ハグマン、ライラ・カムン、ザビエル・ヒハンデ、レト・モイリ、クリストファ・ハニー、ヴァン・ウェディーン、オラフ・スポーンズ『ヒト大脳皮質の構造核のマッピング』)。そこは体性感覚信号やその他五感の感覚信号が集中する領域です。この脳領域が、いわゆる自我意識を生み出す神経機構の座ではないか、という提唱もある(二〇〇四年 ジョージ・ノートフ、フェリックス・バームポール『大脳皮質中央線構造と自我』)。

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自我の脳内表現

2008年12月27日 | x9私はここにいる

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実際、私たちは、目をつぶっていても、自分の身体を感じることができる。それは、感じようとして感じるのではなくて、いつでも無意識に感じていることです。内臓感覚、心臓や動脈の拍動、血管平滑筋の緊張、呼吸運動の感覚、その他筋肉や関節の緊張感覚、身体の重さ、姿勢、傾き、皮膚感覚。そういうもの(体性感覚という)は無意識にいつも感じるし、意識を集中すれば、身体のその部分部分が、いつでもはっきり感じられます。

運動することで、これらの(体性感覚)センサーからの情報が変化すれば、身体の姿勢、各関節の角度や、脈拍、呼吸の変化など、特にはっきりと感じる。脳神経科学の見地では、こういう体性感覚の信号は中脳、脳幹、網様体、視床、大脳前頭葉内側皮質や島皮質に送られて、身体状態を反映する神経活動パターンを引き起こす(一九九九年 アントニオ・ダマシオ『何が起きたかの感情無意識の脳 自己意識の脳〕』。それが、私たちが自分自身を主観的に感知する場合の、脳内の物質的表現になっている、とされる。

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