さて、その程度のことが分かってはいても、今現在の状況では、私たちの感じ方が錯覚だからといって、すぐ改めるわけにもいかない。現代科学の実態を知っている科学者も自分の日常生活では、当然のこととして、自分は目の前にある物事を認識し、それについてしっかり考えた上で意思を決定して行動している、と思い込んでいます。
その思い込みの上に作られている言葉たち。世界、命、心、私、幸福・・・そして、存在、認識、思考、欲望、意思、意識・・・。
それらの言葉で表されるものたちは、現代人の私たちにはしっかりと存在しているように感じますが、この世にそういうものが本当にあるのでしょうか? あるように思えるのは本当ですが、本当にある、というのとは違いますね。
あるように思えるだけではないでしょうか? そして、あるように思えるということだけが、人間の知り得るすべてではないでしょうか?
哲学はたぶん、ここにつまずいて間違っていったのです。私たち現代人はこのことに気がつき始めています(たとえば 二〇〇二年 ダニエル・ウェグナー『意識的意思の幻影』)。たぶんだから、そういう、かつては重みを持っていたはずの言葉たちも、それを頼りにする哲学も、人々から見放されていくのです。
(サブテーマ「人間はなぜ哲学をするのか」end) (次からはサブテーマ「世界という錯覚を共有する動物」ご愛読を請う)
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