このことは、「トイレに行く」という言語表現で端的にあらわされています。しかしながらここで重要なことは、言語表現以前に(X,トイレに行く)というシミュレーションが(日本語が分かる限り)だれの身体にも共有されている、ということです。このシミュレーションは人間の意識的運動を導く世界の分節化のひとつになっている。席を立ってトイレに行く。階段を降りてトイレに行く。トイレのドアを開ける。・・・。
トイレに行くことは、人によってわずかずつ違う運動様式になるし、それもいろいろな細かい運動を連ねて実行するかなり複雑な行動ですが、人間Xがだれであっても、どのような仕方でそれらの運動を実行するにしても一かたまりのシミュレーションで表現される。人間の身体を持っていれば、(日本語が分かる限り)トイレに行くというシミュレーションの意味は、だれでも自分の身体の動き方によってよく知っている。そのシミュレーションを拙稿では(X,トイレに行く)という記号で表しています。(X、Y)という形のシミュレーションを使うことで人間のする運動はすべて表現できます。そのように人間の意識的運動が分節化されているからです。
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