哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

哲学と科学との矛盾

2007年04月30日 | 4世界という錯覚を共有する動物
Hatenacranach2

哲学は、その間違いを人々に権威を持って教えてしまいました。それで世の中の人々が皆、それら錯覚の存在を当然と思ってしまったのです。あいまいな錯覚に物質以上の確実な存在感を感じてしまう。それは歴史上、文明の発展にとっては悪いことではありませんでした。近代の西洋文明のように、哲学に支えられて明瞭な言葉の体系を得た人々は自信を持って自分の人生に努力を集中し、個人の人生目標を確立し、感情を整理してビジネスライクに他人と協力し、現実の世界を開拓していきました。しかし、いまや、それは過去のことです。現代のように宗教が権威を失い、哲学と科学との矛盾が、ここまで明らかになると、哲学の間違いは人々を混乱させる役割を果たすようになるのです。

一番大事そうなことが分からない。世界は大きな謎を抱えているらしい。そのままその謎に知らん顔をして世界は毎日もっともらしく動いていく。冷徹な科学と経済はどこまでも力強そうになってくる。政治は偽善の応酬ばかりで愚劣な社会習慣を改めることができない。そういう白々しい偽善の世界に生きなければならない現代人はニヒルになっていきます。それを科学のせいにしたり政治のせいにしたりしてみるけれども、どうもそうではない。

それでその謎を解こうとするまじめな哲学は現代の科学や経済や政治がもたらす悲惨や偽善、この世の不条理について語りたくなってしまう。しかしそれを語りだすと、また新しい難解な言葉を作り出して袋小路にはまり込んでいく。そして結局は人々に見放されていくのです。そういうふうに、今までの哲学は間違えていったのです。

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哲学に期待しても無理

2007年04月29日 | 4世界という錯覚を共有する動物
Hatenacranach3

さて、駄洒落などはいい加減にして、本題に戻ります。哲学であろうと何学であろうと、言葉で語る以上、語ることができないものを語ることはできません。言葉で語ることができるものよりも語ることができないもののほうがずっと多く、ずっと人々の感情に結びついています。それらは人生において言葉よりも、たぶん、ずっと重要なものです。人々は、そういうよく分からないけれども重要そうなことをはっきり語ることを、哲学に期待するのです。ですが、それは無理です。哲学者はそれらの重要なことを、何とかはっきり語りたいでしょう。それでもそれを語ると、かならず間違いを語るしかないのです。

語ることができないものを無理やりに語っているうちに、それを語ることができるものであるかのように錯覚してしまいます。するとそれは、客観的世界に存在するものであるかのように感じてしまう。命、心、自分、個人、幸福、そういうものがこの世に存在すると思い込んでしまうのです。

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共通な身体機構⇔錯覚の共有

2007年04月28日 | 4世界という錯覚を共有する動物

さて相互理解の話に戻って、別の例をあげます。

たとえば暴力。暴力によって人間どうしが相互理解できる、などというとひどく誤解されそうです。しかし、目の前に突きつけられた暴力の脅威は誰の脳にも同じような恐怖を引き起こす、という点で共感を相互理解できます。刃物を突きつける、あるいは銃口を向けるという行為で表現する脳内の緊張状態(裏返せば、それがないときの安心感、平和感)は、言葉を必要とせずに、かなり正確に伝わるものでしょう。この共感の効果を利用するために、昔の武士は刀剣を帯びていたし、現代の兵士はマシンガンを携行しているのではないでしょうか。

言葉と貨幣と暴力は人間社会の基盤を作っています。現代の国民国家がこれらの管理権を独占することによって安定を保っている事を見てもそれが分かります。これらは人間の脳が、もっとも深いところで、集団として共有している錯覚なのでしょう。

そのほか人間が相互理解できる機会は、儀式や祭礼、戦闘、など鮮明な目的を掲げた組織行動、あるいはその現代的な変形としての演劇、合唱、舞踊、スポーツ、ゲーム、音楽、絵画、彫刻、などの中にもあります。学生の部活動などもこれでしょう。大人の仕事場、ビジネスオフィスなどでも、営利活動の形を取ってはいますが、実は必要以上に、儀礼、祭礼、戦闘、と言った昔の集団行動が変形して行われているように見えます。こういうことを熱心にする人どうしは、言葉に頼らずに互いの脳内状態が相互理解できています。ただしこれらは、そこに集まる人々の間では通じても、お金のように、見ず知らずの他人どうしがそれを介することで、一瞬にして、きちんと相互理解できる、というものではありません。

人間のある集団が共有する錯覚の体系は、集団の履歴、文化、規範を反映します。この点を強調すると、現代文明の相対化に繋がる社会観が作れます(構成主義などという)。一方、人類全体に共通な身体機構から共有される錯覚は多く決まってくる、という見方を強調すれば、いつの時代、どの社会も同じ世界を共有することになります(汎人間主義、人類普遍主義などという)。

どちらを強調するにしても、通常、互いに目で見える物質現象のこと以外では人間どうしは言葉、あるいはそれ以外のどんな手段を使っても、正確に錯覚を共有し相互理解することはかなり難しいと考えるべきでしょう。

動物と付き合った人は分かるでしょう。動物と、物質以外のことで相互理解できますか? 私たちは、ふつう、「動物は言葉が通じないから抽象概念のことは理解できない」という言い方をしますが、じゃあ、人間どうしは本当に通じ合っているのか、抽象概念を本当に相互理解できるのか、と改まって聞かれると、ちょっと自信がなくなりませんか?

ペンは剣より強し」という勇ましい格言がありますが、「ペンは剣より強し・・・されどパンより弱し」という駄洒落のほうが納得できたりします。実際、弱い順に並べると、ペン、剣、お金、パン、という順になる。つまり、正直いえば物質的なほうが強い、ということだと筆者は思いますが、いかがでしょうか?

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魔術⇔科学

2007年04月27日 | 4世界という錯覚を共有する動物

さて、科学と経済、これらは現代の魔術です。科学を使いこなすことで物質世界を間違いなく人間の好きなように操作できる。貨幣をやり取りすることによって、どの人間をも、好きなように操作できる。あるいは逆に、科学や経済によって、自分の身体も心も動かされてしまう。現代の科学、技術、経済、貨幣というものは、まさに昔の人が感じていた魔法の力、神の能力、を実現したものに見えます。科学と経済さえ進歩させれば、神秘的な全知全能、あるいは病魔退散不老不死の力に近づいていける、という感じがします。昔から魔術や宗教や哲学が求めていた神秘で偉大な力というものの大部分が、現代の科学と経済によって実現されていくように見えます。

こういう時代になったから、いままでの哲学が権威をもって教えてきた崇高な思想が、人々の素朴な直感によって、役に立たないものとして見捨てられ始めた、ということではないでしょうか? 十九世紀から現代に続く哲学の苦闘は、伝統的な精神文化を否定する試行錯誤(たとえば二十世紀に最も大きくふれた振り子、一八六七年 カール・マルクス『資本論』など)に揺れましたが、いまだに混迷から抜け出ることはできていません。世相の表面を見る限り、二十一世紀になって、ますます、まっしぐらに、物質とお金の時代になっていくように見えますね。 

現代世相を憂える年寄りは、「昔は良かった。物質ばかりでなく精神が重んじられていた。心を大事にする世の中に、また戻れないのか?」と言って嘆くわけですが、それは無理でしょう。

科学と経済がここまで発展し、その(不気味なくらい)力強い存在感が人々の脳に直接強烈に働きかけるようになった現代生活では、精神や心や哲学といった大昔に作られた錯覚はしだいに頼りなく影が薄くなり、かえって怪しくいかがわしいもののようにさえ感じられるようになってしまったのです。

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物質、そしてお金

2007年04月26日 | 4世界という錯覚を共有する動物

Hatena37 グローバリゼーションと呼ばれている現象も、そこから来ているのでしょうか?

「きれい事を言っても結局、この世は金だ」というメッセージは、なかなか説得力があります。物質、そしてお金。科学と経済、テクノロジーとビジネス。現代はこれらが、哲学や思想に勝ってしまうのです。

そういうお金ですが、これはこの世の中に実在している物質のようなものなのですか? それとも錯覚ですか? ちょっと、首をひねってしまうでしょう? お金とは、考えれば、不思議な存在です。「この間貸した一万円を返してくれ」と迫る友達に、「ああ、あれね。あれは、使っちゃったからもうない」と言ってみましょう。「君の財布に入っているじゃないか」としつこく迫ってくる相手には、「これは君に借りたあの一万円じゃない。違う物だ」と言ってみましょう。間違いなくぶん殴られるか、絶交状態になるでしょうね。

お金とは物質ではないようです。いわばバーチャルなものなのでしょう。まさにインターネットゲームの中でアイテムを売買するのに必要なバーチャルマネーというものがあります。それを実際のお金で売る商売が繁盛していて、問題になっていますね。ふつう、人間はするどい現実感覚を持っていますから、バーチャルな存在感に感情を動かされるはずがないのですが、それが壊されていくのを見るのは不気味ですね。しかし、これも現実。お金というものは、日本銀行が発行するから存在するというものではない、ということを、このサブカルチャーの社会現象はよく表わしています。

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