哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

私はなぜ息をするのか?

2009年10月07日 | xx私はなぜ息をするのか

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私はなぜ息をするのか?

私はなぜ私が息をすると思うのか?

それは、私の身体が人の身体と共鳴して息をするからである。

(20 私はなぜ息をするのか? end)

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拙稿の予想

2009年10月06日 | xx私はなぜ息をするのか

現実よりも大きなものがある。現実よりも深いところで現実を作り出しているものがある。それは、すべての存在とすべての現実とそれ以外のすべてを含む。それは(拙稿の見解では)、現実を作り出している私たちの身体の動きでしょう。人(仲間の人間)の身体と共鳴して動くそれ(拙稿の用語で運動共鳴)がすべてを作り出している。そこから出発しなおすことで間違った哲学から抜け出すことができるのではないか、というのが拙稿の予想ですが、いかがでしょうか?

拝読ブログ:完成しましたゾー!

拝読ブログ:予想がつくのに、それでも感じる強い喪失感。(『ゆきむすめ』 再話・内田莉莎子/絵・佐藤忠良)

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別の間違った哲学

2009年10月05日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertey

そういうものを安易に語ってはいけない。言葉で語れないものを語れると錯覚するところから、私たちは間違ってくる。先にも繰り返し述べましたが、人生の問題、さらには哲学の難問題は、言葉で語れないものを言葉で語ろうとするところから起こっている。自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから、それらは起こってきます。

それでも、こういうものは、目に見える現実世界よりも重要ではないとはいえない。まして、こういうものは、語れないからという理由で無視すべきだ、などと考えてはいけない。ここらへんに気をつけないと、またさらに別の間違った哲学にはまりこむ。

拝読ブログ:転ばぬ先の自分。

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赤色という色は赤い

2009年10月04日 | xx私はなぜ息をするのか

たとえば認知科学で、自分だけしか感じられないと思われる生々しい感覚そのものの存在を問題にする議論がある(クオリア論など、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出、一九八二年  フランク・ジャクソン随伴現象クオリア』既出)。「私が感じている赤色は、あなたが感じている赤色とは違うかもしれない」という問題などです。赤色を感じるときの感じとは何か? 私たちが人と共感できることは、赤色という色は赤い、と言葉で言えることだけです。赤色の感じについて言葉で語れることはそれしかない。赤色の感じそのものについては、私たちはうまく語れない。

語れないことを語ろうとすると、この世には科学で説明できない不思議なものが存在することになってしまう。人とは通じない感じがあるとしても、それを言葉で言うことはできない。実際、人と共有できないけれども感じられるという物事はたくさんあります。

拝読ブログ:矢勝川の彼岸花

拝読ブログ:網膜の色覚感度

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言葉で語れないもの

2009年10月03日 | xx私はなぜ息をするのか

Ertex

たとえば、私の身体に対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ひいきのサッカーチームに対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ペットが死んでしまったときの私の悲しさは、目に見えるこの現実世界の中にはない。私の背中のこの痒いところからくるイライラ感は、目に見えるこの現実の物質世界にはない。こういうものは、この現実の物質世界とはあまり関係がない。この現実世界よりもずっと大きな世界にある。いや、大きな世界にある、というのは正確な言い方ではない。こういうものは、人々と共感することがむずかしい。共感できないものは世界ということもできない。

それは比喩や想像を使って人々と共感できるような架空の世界といえるものでもない。ただ、私の身体がそれをかなり強烈に感じる、というだけのことです。人と共感できないものは、言葉で語ることは不可能というしかない。言葉で語れないものを語ろうとすれば、かならずおかしな表現になる。

拝読ブログ:現在と全然違う思考で書いた最初の死後の思考

拝読ブログ:Paul Hindemith - くるるの数学ノート

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