そういうものを安易に語ってはいけない。言葉で語れないものを語れると錯覚するところから、私たちは間違ってくる。先にも繰り返し述べましたが、人生の問題、さらには哲学の難問題は、言葉で語れないものを言葉で語ろうとするところから起こっている。自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから、それらは起こってきます。
それでも、こういうものは、目に見える現実世界よりも重要ではないとはいえない。まして、こういうものは、語れないからという理由で無視すべきだ、などと考えてはいけない。ここらへんに気をつけないと、またさらに別の間違った哲学にはまりこむ。
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たとえば認知科学で、自分だけしか感じられないと思われる生々しい感覚そのものの存在を問題にする議論がある(クオリア論など、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出、一九八二年 フランク・ジャクソン『随伴現象クオリア』既出)。「私が感じている赤色は、あなたが感じている赤色とは違うかもしれない」という問題などです。赤色を感じるときの感じとは何か? 私たちが人と共感できることは、赤色という色は赤い、と言葉で言えることだけです。赤色の感じについて言葉で語れることはそれしかない。赤色の感じそのものについては、私たちはうまく語れない。
語れないことを語ろうとすると、この世には科学で説明できない不思議なものが存在することになってしまう。人とは通じない感じがあるとしても、それを言葉で言うことはできない。実際、人と共有できないけれども感じられるという物事はたくさんあります。
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たとえば、私の身体に対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ひいきのサッカーチームに対する私の愛情は、目に見えるこの現実世界の中にはない。ペットが死んでしまったときの私の悲しさは、目に見えるこの現実世界の中にはない。私の背中のこの痒いところからくるイライラ感は、目に見えるこの現実の物質世界にはない。こういうものは、この現実の物質世界とはあまり関係がない。この現実世界よりもずっと大きな世界にある。いや、大きな世界にある、というのは正確な言い方ではない。こういうものは、人々と共感することがむずかしい。共感できないものは世界ということもできない。
それは比喩や想像を使って人々と共感できるような架空の世界といえるものでもない。ただ、私の身体がそれをかなり強烈に感じる、というだけのことです。人と共感できないものは、言葉で語ることは不可能というしかない。言葉で語れないものを語ろうとすれば、かならずおかしな表現になる。
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