短歌や俳句や詩ならそれができる、と詩人は言うかもしれない。映像ならできる、と映像アーティストはいうかもしれない。けれども、それができないことは、本当の詩人や芸術家なら痛いほど感じているはずです。文学、芸術は比喩を使う。実に巧妙に比喩を使うことはできるけれども、比喩は比喩でしかない。物質現象を手がかりにして、物質でない錯覚を暗示できるだけです。
自分中心世界から持ち込んできた、かけがえのない自分だけの感情のほとばしりを、人間はけっして言葉では言い表せない。赤ちゃんのころは、どんな感情でも泣き叫べばよかった。泣き叫べば、それで感情表現はすんでしまいました。でも大人になると、言葉を叫んでそれですべてを表現したつもりになることはできません。
大人の言葉は、すべてを表現する赤ちゃんの泣き叫びと違って、何でも表現できる万能の仕掛けではない。大人の言葉は、客観的世界を下敷きにして作られている。言語は、他人と共感できるものだけで組み立てられている。その仕組みからして、言語は、だれの目にも見える客観的な物事しか言い表せないシステムです。逆に言えば、客観的世界は、人間が感じるものすべてからではなく、言語で言い表せるようなその一部分だけからできている。
つまり私たちの使う言語や科学は、私たちが感じることの一部分しか言い表せない。残念ながらそうでしかありません。その部分から人間の言語は作られている。したがって、感じることの一部分しか人間どうしは語り合うことができない。少しさびしいけれども、それが事実です。
人間の言語は客観的物質世界を土台にして作られている。客観的世界にあるだれの目にも見えるもの以外のものを、言葉で正確に言い表すことはできないのです。
(サブテーマ 私はなぜあるのか? end)
(第二部 この世はなぜあるのか? end)
拝読ブログ:行動と感情の芸術的な表現(説得力のある演技)。或いは行動と感情の真実味のある表現(リアリティーのある演技)。
拝読ブログ:「対話の可能性」