哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

客観的世界⇔言語

2007年11月02日 | x2私はなぜあるのか

短歌や俳句や詩ならそれができる、と詩人は言うかもしれない。映像ならできる、と映像アーティストはいうかもしれない。けれども、それができないことは、本当の詩人や芸術家なら痛いほど感じているはずです。文学、芸術は比喩を使う。実に巧妙に比喩を使うことはできるけれども、比喩は比喩でしかない。物質現象を手がかりにして、物質でない錯覚を暗示できるだけです。

自分中心世界から持ち込んできた、かけがえのない自分だけの感情のほとばしりを、人間はけっして言葉では言い表せない。赤ちゃんのころは、どんな感情でも泣き叫べばよかった。泣き叫べば、それで感情表現はすんでしまいました。でも大人になると、言葉を叫んでそれですべてを表現したつもりになることはできません。

大人の言葉は、すべてを表現する赤ちゃんの泣き叫びと違って、何でも表現できる万能の仕掛けではない。大人の言葉は、客観的世界を下敷きにして作られている。言語は、他人と共感できるものだけで組み立てられている。その仕組みからして、言語は、だれの目にも見える客観的な物事しか言い表せないシステムです。逆に言えば、客観的世界は、人間が感じるものすべてからではなく、言語で言い表せるようなその一部分だけからできている。

つまり私たちの使う言語や科学は、私たちが感じることの一部分しか言い表せない。残念ながらそうでしかありません。その部分から人間の言語は作られている。したがって、感じることの一部分しか人間どうしは語り合うことができない。少しさびしいけれども、それが事実です。

人間の言語は客観的物質世界を土台にして作られている。客観的世界にあるだれの目にも見えるもの以外のものを、言葉で正確に言い表すことはできないのです。

(サブテーマ 私はなぜあるのか? end

(第二部 この世はなぜあるのか? end)

拝読ブログ:行動と感情の芸術的な表現(説得力のある演技)。或いは行動と感情の真実味のある表現(リアリティーのある演技)。

拝読ブログ:「対話の可能性」

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言葉を使う限り

2007年11月01日 | x2私はなぜあるのか

Delacroixandromeda こういうことを深く考えないようにすれば、人間は問題なく生きていける。そのほうが客観的物質世界の中で能率的に生活をこなしていける。人間の脳は、まず能率的に生活できるように進化した。つまり私たちは、生活に関係ない問題の存在には気が付きにくいようになっているはずです。生活に関しては、自分たちが住んでいるこの世界の中だけを考えていればよいわけです。この世界にないものを考えても仕方がない。逆に言えば、私たちが考えられるものは全部この世界の中にあるのだ、と思えばよいわけです。

こういう理由で、人間は、自分が感じるものをそのまま全部言い表すことはできないということを理解しにくいようになっている。そういう矛盾に鈍感でいられるように進化しているはずです。それでも、少数の敏感な人はそれを微かに感じ取ってしまう。しかし周りの人たちはそんなことは問題にしていなくて、毎日忙しそうに動き回っている。たぶん自分のこの気持ちはだれにも分からないだろう、と思う。そしてひとり黙り込んでしまう。あるいは、哲学にその謎を解いて欲しい、と思う。しかし、それは先に述べたように、無理なことを期待しているわけです。

私が感じること全体の一部だけが、他の人間が感じることと共鳴する。その共鳴がこの客観的世界を存在させている。それで客観的世界の中にあることは言葉で言い表せる。実際、客観的世界は、ふつう私たちが感じることの大部分を占める。ふつう私たちは、客観的世界を表わすその部分に関係するだけで毎日を過ごしている。その部分の中だけで経済は動く。その部分の中だけで科学もつくられている。つまりその部分についての話だけが言語を使って言い表せる。だれとも共感できる客観的物質世界を下敷きにして私たちは言葉を話し、生活し、哲学や科学を作った。哲学や科学ばかりではない。言葉を使って表現されるものはすべて、この客観的物質世界を下敷きに作られています。文学もドラマもマンガも漫才も、全部それです。だから哲学であろうと科学であろうと文学であろうと、マンガであろうとインターネットのブログであろうと、言葉を使う限り、私が感じることのすべてを言い表すことはできない。

拝読ブログ:何この画像…(οдО;)

拝読ブログ:カラヤンの信頼性とアルバン・ベルク弦楽四重奏団

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言語の限界

2007年10月31日 | x2私はなぜあるのか

だれの目にも見える私の肉体の外見を含む客観的な冷たい物質世界と、私にしか感じられない私の内面にあるこの熱い思い。この二つは関係がないわけではないらしいけれども、どうも一つのものとは思えない。その違和感が、私たち現代人を悩ませる。それを解決することを哲学に期待したい、とも思うわけです。

しかしそれは無理です。哲学は、真面目にそれをすればするほど、言葉を精密にし、冷たい言葉を使うようになるしかない。それで、どうしても目に見える冷たい物質世界、科学の世界、あるいは数学のような形式論理のほうへ近づいてしまう。精密な言葉遣いは、話し手から見ても聞き手から見ても、同じに見える客観的世界について語るしかない。言語というものは、客観的世界の中での話し手と聞き手の対称性を土台にして作られているからです。

話し手も聞き手もこの世界全体も私が感じることの中にしかない、という自分中心的な話は、この世の言葉では語りにくい。実際、語ることは不可能です。人間の言葉を使う限り、あなたも私も人間はすべて同じようにこの実在する客観的物質世界の中にいる、だれもが同じように世界を感じながらそれぞれの身体を運転している、という前提のもとで私たちは言葉を話す。文章を書くときも同じ。人間の言葉を使う限り、そういう語り方しかできない。聞き手に見えない、だれの目にも見えない、私だけにしか感じられないこの今の熱い感覚そしてこの感情が私なのだと言いたくても、人間の言葉はそういうことを言うようには作られていません。自分中心世界にしかないそういう部分は、この現実の物質世界に存在すると言うことができない。無理やりそう言えば、たちまち矛盾した無意味な言葉になってしまう。

拝読ブログ:そんなぁー!?(こそあど言葉・指示語の学習)

拝聴ビデオ:Wittgenstein: Philosophical discussion in Cambridge

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この世には科学しかない

2007年10月30日 | x2私はなぜあるのか

Delacroixalge 私は、ここにあるこの人体が私の思ったように動く、つまり私の念力で動かせる唯一の物体なのだ、と感じる。そこでときどきは、自分中心モデルも使えることを思い出す。自分の手足が届く空間だけを考えて、そこにあるものを自由に動かすことだけを考えれば、自分中心モデルが使える。だからそういうときは、自分の身体が世界の中心だという感じもする。生まれてから今までの経験のすべてがそれを正しいと教えてくれる、と感じます。

しかしまた、客観的世界モデルを使って世界をながめる限り、物質としての私のこの肉体は世界の中心でもなんでもない。他の人間の肉体とまったく同じようにただの物質でしかない。他の物質とまったく同じように物質の法則にしたがって動き、変化し、いつか壊れていく。

そのことは、私が何を思おうと思うまいと関係のない話です。ただの物質である私の脳が私の意思などというもので動いているはずがない。私の肉体も含めた世界のすべては単に物質の法則にしたがって変化しているだけだ、と思うしかない。神も仏も、誕生日占いも、幸運の女神もない。この世には、科学が明らかにした物質の法則しかないのです。

この客観的物質世界の存在感が強まるほど、物質としての私の人体の外見がはっきりとだれの目にも見えてくる。それと同時に、私がひそかに私と思っているだれの目にも見えない深いところにある熱い感情の部分は無視され、居所を失っていく。

拝読ブログ:選択肢に本当に考えさせられたゲーム

拝読ブログ:客観と私心

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客観的世界にある自分

2007年10月29日 | x2私はなぜあるのか

自分中心モデルは、脳幹と辺縁系、基底核を主に使うらしく、とっさの場面でのすばやい反応には便利ですが、長期的で整理された記憶、予測、精密な制御などにはうまく使えない。

テニスやゴルフなどでも、初心者が自分中心モデルを使って無邪気にボールを打とうとすると、まずうまくいかない。先生のフォームを見習ったり、鏡やビデオで自分のフォームを見たりして意識的に修正できるようにならないと、上達しません。客観的に自分の姿を見ることで、自分の動きを予測したり記憶したりできる。このように他人や自分のフォームを客観的にみるときは、客観的世界モデルを使っている。上達して達人になると、また自分中心モデルを使って無邪気に打つようになる。それで、客観的に見ても正しいフォームになっているわけです。

現代人の生活では、複雑な社会の中での言語生活が重要ですから、自分中心モデルを使うと損をすることが多い。自分中心的な行動が優先して他人の気持ちを無視してしまうのです。自分中心では、言葉を上手に話すこともできません。言語は、他人の目には見えないような、客観的でないものを表そうとしても、うまく伝わらないものだからです。

それで、現代人は、ますます客観的物質世界モデルにはまりこんで生きている。それだけが世界のすべてだと思うようになっています。私が感じることはすべて、ここにある私の身体という物質が感じているのだ、と思っている。この世に無数に見える人体のうちで、ひとつだけが自分が自由に操縦できる。その身体の動きを自分で感じることができる。その身体を通じて、現実世界を感じることができる。それが自分の身体だと思っています。だれの目にも客観的にはっきり見えるこの私の肉体、というものを考えるとき、私たちは客観的世界モデルを使っている。

ふつう私たちが、私、自分、というものを考えるときは客観的世界の中にある自分の身体を考えている。筆者もそうですが、たぶんたいていの人はそれを自分と思ってまったく違和感はないはずです。しかしその場合、私たちは、しっかりと客観的世界の中にはまりこんでいるわけです。逆に言えば、客観的世界に入り込んでいなければ、私というものを、しっかりと考えることはできません。

大人の人間は、客観的物質世界の中の目に見える自分の身体に自分が感じる五感のほか、あらゆる感覚、身体内部感覚、錯覚、感情などを上手に投射しますから、自分の感じることと目に見える自分の身体との統一した存在感を感じることができるのです。

拝読ブログ:スクール6日目

拝読ブログ:自分の姿が鏡に映らないドッキリムービー

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