哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

便宜主義的

2009年06月30日 | xx私はなぜ息をするのか

レストランで紅茶をすする場面では、紅茶をすすった直後に息を吐いています。それは記憶していないけれども、息を吐いているはずです。息を吐きながら、「はあ」とか声が出たかもしれない。しかし、それも覚えていない。バースデーケーキのキャンドルを吹き消す場面では、息を吐く直前に息を吸っているはずですが、それは覚えていない。鼻の穴をひろげて、「すうう」とか音が出たに違いない。それでも記憶にありません。

自分の意識的な行動に関する私たちの記憶は、このように恣意的で断片的です。便宜主義的といってよい。自分の行動を予測してうまくやりたいと思うことだけを記憶する。うまくしなければいけない、と気にしている行為だけを記憶する。その行為がうまくできたか失敗したかの自己評価をコンテキストとともに記憶する。そういうしかたで、私たちはそのコンテキストにおいてはそのような身体の動かし方がうまくいくことを学習する。そうして次回に役立てると便利なことだけを記憶する。自分がそれに習熟して上手になるとうれしいとか、得をするとか、便利だとかと思われる運動だけを予測し学習し記憶する。私たちは、はなはだ、ご都合主義的であり、便宜主義的であります。

拝読ブログ:指揮権発動

拝読ブログ:便利な操作

コメント

コンテキスト

2009年06月29日 | xx私はなぜ息をするのか

Rackham_ring22

この場合、紅茶をすすることを実行しようと思う、ということは、その結果、何が起きるかを予測するということです。ここには特有のコンテキスト(場面特有の事情)がある。ここは高級レストランで、お客さんたちは皆上品な人たちで、お互いに迷惑をかけないように、音を立てないように気遣いながら静かに食事をしている。ほんとうに静かです。そこで、あなただけがすごい音を立てて紅茶をすする。全員が聞こえないふりをするでしょうね。ところが、あなたの連れ合いだけは知らん顔をしてくれないばかりか、目をむいて怒った顔をする。

ここでの「(息を吸うという運動)Aを実行しようと意識して思う神経活動B」は、このレストランでのコンテキストを含んで予測と記憶が行われる。単に、息を吸う、という行為ではなく、大きな滑稽な音を立てて静寂を破る、という行為の結果を、このコンテキストの上で予測する。同じ筋肉運動でも、コンテキストが違えば、違う予測になる。だれもいない自分の部屋で遠慮せずに音を立てて紅茶を飲む。そういう場面でも横隔膜の筋肉運動としてはまったく同じです。しかし、コンテキストはぜんぜん違う。一方、無意識に息を吸う場合は、コンテキストに関係なく、息を吸うだけです。予測も記憶もない。ところが意識して息を吸う場合は、コンテキストに依存した予測と記憶がなされる。

拝読ブログ:コンテキスト思考

<stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 3.75pt"></shape><imagedata o:href="http://s.hatena.ne.jp/images/comment.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif"></imagedata>

拝読ブログ:コンテキストで意味が変わる関数<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" alt="Comments" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 3.75pt"></shape><imagedata o:href="http://s.hatena.ne.jp/images/comment.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.png"></imagedata>

コメント

予測=意識

2009年06月28日 | xx私はなぜ息をするのか

意識して運動するということは予測を伴う、ということからすると、Bという神経活動は予測を伴うはずです。Aを実行しようと意識的に思うときは、必ずAの結果を予測している。逆にいえば、Aの結果を予測するということが、Aを実行しようと意識的に思うという神経活動Bのことである、といってよい。

それでは、Aの結果を予測する、つまり息を吸うことの結果を予測する。それはどんな場面か? 先の例で、高級レストランで紅茶をすする場面。あなたは、いまこれから大きな音を立てて、ズズズーっと、紅茶をすすります。その行為を実行しようとしている。さあ、始めましょう。

拝読ブログ:うちの3姉妹『高級レストランデビュー!!』

拝読ブログ:女の子のための

コメント

実行しようと意識する

2009年06月27日 | xx私はなぜ息をするのか

Rackham_ring18

さて、ここでまた息の議論に戻る。意識して息を吸ったことを覚えている、とはどういうことか? 先に書いた四つの要素をもう一度、書き下してみましょう。

意識して息を吸ったことを覚えている、という神経活動は、次のように四つの要素に分解できる。

(1)無意識と有意識とで共通な、息を吸う筋肉運動を引き起こす神経活動A

(2)Aを実行しようと意識して思う神経活動B

(3)Bを記憶する神経活動C

(4)記憶したBを想起する神経活動D

この(2)、つまり「Aを実行しようと意識して思う神経活動B」とは何なのか? 

拝読ブログ:ギルティギア2 オーヴァチュア

拝読ブログ:近ごろ、あれこれ

コメント

社会と自分との関係性

2009年06月26日 | xx私はなぜ息をするのか

人間の場合、それに加えて、社会での人間関係において自分という人物のモデルが運動の結果起こす社会的な事態をシミュレーションによって予測し、結果を評価して、他の人々(社会)と自分との(確率的な)関係性を学習する。たとえば、うそをついてばれるとたぶん仲間はずれにされるだろう、とかです。

こういう場合、予測してから動いている(動物あるいは)人の動きを観察すると、意識を持って行動しているように見える。特に、自分自身を観察する場合、私たちは、自分の運動の予測と実際の結果とそのとき感知する体性感覚や感情とを総合して学習し記憶して、自分は意識をもってそれをしたのだと思う。

拝読ブログ:哲学と思想は正反対 「翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない」

拝読ブログ:すらすら読めるドストエフスキー

コメント