哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

はじめからこのようか?

2011年11月30日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

拙稿が述べている見解は、私たちの直感とは違います。拙稿の見解では、この空間ははじめからこのようにあるという考えは採りません。筆者ももちろん、直感では、この空間ははじめからこのようにある、と感じます。人とふつうの会話をするときも、そう感じたままで話を交わしています。しかし、直感は物事がそう見えるということであって、それがそのまま存在する物事を映していると思うのは間違いです。

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空間認知表現を予測計算

2011年11月29日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

Fernand_khnopff__la_vieille_en_hive なぜならば、そうすると脳神経系で行う運動の予測計算が簡単になるからです。人間の眼球運動や顔の細かい運動をいちいち意識してその運動が生成する空間を計算するとすれば膨大な計算量となります。それよりも、空間はただそこにあって、その中にいる人間や動物ははじめからその空間を知っている、とするほうがずっと簡単に物事を予測できます。その程度の予測計算は生物の脳神経系で実行可能です。そうでなくて観測対象とする動物の細かい運動を全部インプットしてその動物の運動神経系のシミュレーションからその空間認知表現をリアルタイムで予測計算しようとすると超高速コンピュータでもそれほどの計算量はこなせないでしょう。

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知っていることにする

2011年11月28日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

その場合、私たちは自分たちの身体が細かく動いていることはあまり意識しません。たとえば私たちの眼球や顔はたえず動き回って身の回りの空間を見渡していますが、私たちは、ふつうそれを意識しません。ただ、周りの空間がある、と思います。

私たちが他人や自分の動きを予測するためには、人間というものは単純に自分が置かれている空間を知っているのだ、と感じ取る仕方が能率的です。空間は、当たり前に、感じられるとおりに、私たちの身体のあり方やその動きには関係なくただそこにある、と私も私以外の人間も感じているはずだ、と感じられます。私たちの身体はそう感じるようになっています。人類の身体はそのように進化してきました。

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空間がまずあるのか?

2011年11月27日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

Fernand_khnopff__i_lock_my_door_upo 私たちが空間を感じ取るとき、それは不動で初めからそこにあって、その中を自分たちの身体が動いていく、と感じます。空間がまずあって、そこに私の身体があって、他の人々の身体があって、その他のものたちがある、と感じられます。この感じ方は、仲間の人々の動きを感じ取ることで、またいろいろなものたちを見ること、触ること、それらを動かしたり、それらに動かされたりすること、などこまごまとした身体運動の積み重ねから感じ取れます。

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近代哲学の空間概念

2011年11月26日 | xx7私はなぜ空間を語るのか

私がほとんど意識せずに身体を動かそうと思っているとき、たとえば部屋のドアを開けて外へ出ようとしているとき、私の身体はドアを開けると外に出られること、つまりここはそういう空間であること、を無意識のうちに知っている。そういう場合、この部屋から外への空間は、身体が動こうとしているその仮想運動によって作られている、といえます。こうして(拙稿の見解では)空間は私たちの身体の動きによって生成されています。人間にとって、そのように生成される空間は、先に述べたように、人間の運動を形成する神経系の機構によって、自然にユークリッド空間になっています。つまり近代哲学で論じられたように、人間にとって空間はアプリオリに(先験的に)与えられている、といえます。ただしそれは理性によって(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判 』第二版)というよりも(拙稿の見解では)動物として進化した人体の(神経系の)運動機構によりアプリオリに与えられています。そしてそれを言葉で語るとき、私たちは仲間との運動共鳴によって共有する空間概念を語っている、といえます。

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