哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

食べるという概念

2009年12月31日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

PがQを襲う。

この言葉の構造を、すこし詳しく、調べて見ましょう。まずPが台風の場合などには、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にだけある。Pが台風のような気象現象である場合は、だれもこの見解に納得するでしょう。

ではPがライオンのような動物である場合はどうか? 拙稿の見解では、この場合もライオンPの内部には人間である観察者Rが思っているような目的はない。ライオンは餌食を襲うときの運動目的イメージとして特定の形式の運動シミュレーションを体内に持っていることは明らかですが、それは人間の観察者Rが思っているような目的ではない。観察者の人間Rは、ライオンがシマウマを食べて食欲を満たそうとしてそれを襲う、と思っている。しかし拙稿の見解では、ライオンは食欲とか食べるとかいう概念は持っていません。

拝読ブログ:No food, no life

拝読ブログ:北海道では大晦日からおせち料理を食べる

コメント

目的は観察者の内部にある

2009年12月30日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_combatdecoqs

では、次にその台風が人間である場合はどうか? 幼稚園児の大風君が同じ年長組の九周君を襲う場合です。大風君が九周君の持っているボールを狙って襲いかかる。これを見ている先生は、「X月X日。プレイルームで、大風が九周に襲いかかり、大騒動をもたらした」と日誌に書くでしょう。先の例の台風の内部には襲いかかる目的がないのに、大風君の内部には襲いかかる目的があることになっている。

PがQを襲う場合、それを見ているRという観察者が「PがQを襲う」と言ったとすれば、拙稿の見解では、RはPがQを襲う目的を知っている。つまり、このとき、PがQを襲う目的は観察者Rの内部にある。

ここで(拙稿の見解では)、PがQを襲う目的はPの内部にあるというよりもむしろPの内部にではなくて観察者Rの内部にある、という点に注意してください。

拝読ブログ:☆『離せ』の練習+ダウンパーカー☆

拝読ブログ:クリスマスは山の中

コメント

行為は観察者の内部にある

2009年12月29日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

つまり、ケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合も、台風が九州地方を襲う場合も、経済不況が中小企業を襲う場合も、「襲う」という言葉を使う人は、それがそれを襲う目的を知っている。XがYをする、という形で物事の認知をするとき、私たちはXがYをする目的をすでに知っている。

逆に言えば、台風が九州を襲う場合、気象現象である台風は自分が九州を襲う目的を知らない。この光景を観察している人間が台風の行為の目的を知っている、ということでしょう。

観察者が台風の行為の目的を知っているかのごとく、その行為を「台風が九州を襲う」と表現している。この場合、「襲う」という表現は比喩として使われている。台風のなす行為の目的は台風の内部にはなくて、その行為を遠くから観察している人間の内部にある。台風のその行為を、言葉で述べようとする人間の内部にある。台風の観察者は「台風が九州地方に襲いかかり、大災害をもたらした」と実況ニュースで述べる。あるいはブログに書く。つまり、拙稿の見解を使えば、「襲う」という行為は台風の内部にはなくて、それを観察し叙述する人間の内部にある。

XがYをするとき、そのことを「XがYをする」と言うのは、その話し手が、XがYをする、と思っているからです。

拝読ブログ:相対性理論をわかりやすく説明してみる(2)

拝読ブログ:マイナークラブハウスの森林生活」木地雅映子

コメント

不況が「襲う」

2009年12月28日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_bisharinwarrior 

深刻な経済不況が中小企業を襲う場合、私たちは問題なくこの状況を理解できる。深刻な経済不況が中小企業を襲うとどうなるのか、中小企業のオーナーや働く人々にとって非常に困ったことになることはだれもが予測できる。私たちは、そういう予測を共有しています。

その予想される事態が、経済不況が中小企業を襲う(という比喩としての)目的です。経済不況は人間ではありませんから、中小企業を苦しめたいなどいう意図は持たないでしょう。しかし中小企業の苦しみに思いを寄せるとすれば、経済不況はその人たちを苦しめるために襲ってきた、害を与えるために来た、と思いたい気持ちが分かる。だから、「襲う」という比喩が使われるのです。そこを考えると、やはり、経済不況は中小企業を苦しめたいという目的を持ってそれらを襲う、と言ってよいことになる。

拝読ブログ:第二章 激動の時代: 中村紀雄(中村のりお)の議員日記

拝読ブログ:今日の献立(横浜市大病院)

コメント

無生物の目的

2009年12月27日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちが言葉で「XがYをする」というとき、Xが人の場合もあり、Xが動物の場合もある。人類の言語では、言葉で言えるもの(概念)は、何でもXになれる。では、Xが無生物の場合、たとえば台風が九州地方を襲う、という場面についてはどうでしょうか?

どういう運動目的イメージが、この場面で使われるのか? 気象衛星「ひまわり」の写真のような日本列島周辺の雲の動きをイメージするのでしょうか?

では、深刻な経済不況が中小企業を襲う、という場面はどうか?

この場面を表す運動目的イメージはあり得るでしょうか? 経済不況という何か巨大で真っ黒い化け物のようなイメージが無数の人間集団の上から覆いかぶさってくる、というような絵になりますかね。マンガ家はこういうものも絵に描きます。私たちは、こういうものもなんとなくイメージできる。そのイメージはだれのものとも同じようなものだという確信も持てます。人間はだれでも、このような運動目的イメージを持てます。

拝読ブログ:明神山(ユヤノ沢)

拝読ブログ:景気循環

コメント