哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

脳神経系の状態遷移

2011年04月30日 | xx5存在は理論なのか

さてここで後段プロセスの話を始める前にしっかり確認しておかなければいけないことは、前段プロセスでの言葉にならない無意識の認知があってはじめて、後段プロセスの言葉が浮かんでくることです。

この言葉にならない無意識の前段プロセスを進める脳神経系のメカニズムは、現代の脳神経科学ではまだ解明されていません。現代の脳機能画像化技術だけでこれを解明することはむずかしそうです。このメカニズムの解明は、神経細胞単位の微小かつシステム的な観察技術の開発がなされるであろう次世代の脳神経科学における最大の課題のひとつとなるでしょう。いずれにせよ、現在の科学知識で私たちが分かることは、人間の脳神経系の状態が認知プロセスの始まる前と前段が完了した時点と後段が完了した時点と三つの時点でそれぞれ別の状態になっているということです。そして後段プロセスは前段プロセスが完了した後でないとはじまらない、ということです。

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客観性ー集団性

2011年04月29日 | xx5存在は理論なのか

Klimt2 ちなみに、この後段プロセスでは、仲間が同時に必要と感じるものだけが存在できるようになるという点に注意が必要です。自分ひとりだけが感じても仲間がそれを必要としないような物事は、仲間と共有できないので、言葉になりません。そういう物事は前段プロセスで止まってしまって、後段プロセスまで進みません。その場合は記憶に残らず後で思い出すこともできません。

私たちはそういう物事を客観的な現実と思うことができません。夢で見た感覚などはそれでしょう。身体内部の感覚なども一過性であればほとんど記憶に残りません(拙稿23章「人類最大の謎」 。それらは客観的に存在するものではない。逆に言えば、客観的に存在する物事とは、後段プロセスにまで進んで、仲間がそれを私たちと一緒に必要と感じる(と感じられる)物事のことです。

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客観性の起源

2011年04月28日 | xx5存在は理論なのか

後段の認知プロセスで、私たちは言葉を使って仲間と一緒に生活に必要な物事の客観的な存在を共有します。私たち人間はほかの動物と違って、実際には仲間がそばにいなくて自分ひとりの時も、仲間の視点に立って集団的に、つまり客観的に、物事を認知できる能力を持っています。

逆に言えば、これが私たちが感じる客観性の起源である、といえるでしょう。

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反射運動が認知

2011年04月27日 | xx5存在は理論なのか

Gustav_klimt_portrait_of_helene_kli 動物は進化の結果、それぞれの生態環境で生存繁殖に必要な認知機構を発達させています。多くの動物は、リンゴを見た瞬間、身体が動いてそれを口にくわえる。その反射運動が動物にとってのリンゴの認知になっています。人間も、生まれつき備わっている動物共通の前段プロセスで、生活に必要な身の回りの物事の存在を無意識のうちに(身体反射として)認知しています。ここまでの無意識のプロセスで、身体は対象物に反応して動き出しそうになる。動物や幼児は実際に身体が動いてしまいます(二〇〇三年 ブルース・フッド、ヴィクトリア・コール=デイヴィス、マラニー・ディアス『就学前児童における物体視認と探索の方法 』)。譫妄状態の人も同様でしょう。意識のしっかりした大人の人間だけが、感覚刺激に対して衝動的に身体を動かさないで冷静に事態を予測できます。逆に言えば、このような身体の状態を私たちは、しっかりとした意識がある状態と言っています。

拝読ブログ:意識するかしないかで違いが出る<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="Comments" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"></shape><imagedata o:href="http://s.hatena.ne.jp/images/comment_dg.gif" src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.gif"></imagedata>

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人間特有の後段プロセス

2011年04月26日 | xx5存在は理論なのか

後ろのこの認知プロセスを後段プロセスと呼びましょう。後段プロセスを経ることによって、私たちは「リンゴがそこにある」と思い、人にそれを語りそれを記憶する。つまり目の前のリンゴがこうしてはっきりと存在するようになります。ここまで行くためには(拙稿の見解では)、まず前段プロセスで私たちは人間以外の動物と同じ様にそれがそこにあることを身体反応で感じとって、次に人間特有の後段プロセスで「リンゴがそこにある」と認識するという二段階のプロセスを行わなければなりません。

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