哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

死の意味

2012年03月31日 | xx9 生きるという生き方

大した理由もなく、私たちは知っている人のことをふっと思い出します。その思い出す人が死んでしまった人か、生きている人か、の違いで思い出すときの感覚は違います。

同時代に生きている、今生きている人を思うことは、死んでしまった人を思うことは根本的に違うところがあります。生きているということは、これから何かをするということです。何かをするか、何もしないか、の違いは決定的です。死んだ人は何もしないだろうと確信できますね。私たちから見てその人はもう絶対に何もしないだろうと確信できること、それが私たちにとっての、その人が死んだということの意味です。逆にいえば、私たちがその人は何かをするだろうと思えるということが、その人がいま生きているということでしょう。

拝読ブログ:機関誌に寄稿した文章 - 無骨な日記

拝読ブログ:Toward the Sea : 小林秀雄批判補遺(蓮實重彦、柄谷行人、中上健次)、あるいは恋文のように

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さびしさ

2012年03月30日 | xx9 生きるという生き方

Cleopatra__john_william_waterhouse 私たちがよく知っているある人が死んでしまうということは、仕事仲間あるいは遊び仲間が減って困ったとか困らないとかいう生活上の問題はありますが、それとは別に身体が少し苦しくなるようなさびしさというものがあって、それはそういうところからくるのでしょう。

拝読ブログ:金田一京助 「心の小径」 : 「3教科」で合格ラインをクリアー中学受験

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自分の中で何か

2012年03月29日 | xx9 生きるという生き方

親しい人に限らすスターや作家や有名人など、同時代に生きていてその最近作品や最近の行動が報じられる人々。そういう人と今私たちが生きていると感じている人々。その人の訃報が報じられると、何か自分の中でも何か、たいていはとても小さな何かですが、無くなってしまったような気持ちになります。

拝読ブログ:【超まとめ?】『サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている』西内 啓:マインドマップ的読書感想文

拝読ブログ:木の花*コノハナ 人が変わるには、一日で十分。嬉しいハガキ、メール。

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連続ドラマの終わり

2012年03月28日 | xx9 生きるという生き方

Circe_invidiosa__john_william_water 楽しみにしていた連続ドラマが終わってしまったような、連載マンガが終わってしまったような、長編映画が終わってしまったような、一種のむなしさのようなものに近いのかもしれません。連続ドラマといっても歴史物のように筋が分かっているものは終末が予想できます。しかし寅さんのような人情物とか水戸黄門のような一幕物のワンパターンの繰り返しであれば、いつ終わるともしれず、見ているほうも終わりが来ると思っていませんね。

拝読ブログ:終わりのないゲームなんだ。仕方ない・・・ - エクレアのあのねのね

拝読ブログ:最後から二番目の恋最終話(3.22) :: まっつーのTV観覧日誌(*´д`*)

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世界が違う

2012年03月27日 | xx9 生きるという生き方

ところがその人がもう死んでしまったとなると、いま何を思っているかという想像ができない。まったく意味がなくなってしまうからです。その人の思いなど想像する気がしなくなります。

そういうことは、もともと、それが想像できないからといって、現時点で仕事上の付き合い仲間でもなければ、とくに困ったことはないわけです。それでも、生きていたころとは、この世界が、その人がいなくなった分だけ違ってしまったような気がします。

拝読ブログ:世界の注目を一身に浴びている気分はどうなのだろうか?: mamofish

拝読ブログ:準高校生。 世界が変わったから

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