そうすれば、哲学がどこでどう間違えていったのか、そして私たち現代人は、どうすればその間違いから脱出できるのか、分かってくるかもしれませんよ。
なぜ、哲学は間違うのか?
なぜ、人を殺してはいけないのか?
なぜ、全裸で街を歩いてはいけないのか?
そういうことはなぜなのか、どういうことなのか、分かってくるでしょう。
人の命、人の心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、全裸・・・。こういう存在感の強い言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか? 私たちは、こういうものに囲まれて、それらをどうしようかと考えることで、毎日を生きているのです。それなのに、こういうものたちは、科学ではまったく捉えられない。科学者はこれらを説明できないばかりでなく、なぜ説明できないかも説明できません。これが表しているものが物質そのものとして示せないからです。こういうものたちは、人間の脳の中にしかない錯覚なのでしょうか? そういう錯覚がなぜ、こんなに強く人間の感情を揺すぶるのでしょうか?
こういう言葉が表している目に見えないものたちと、それを思い浮かべるときに私たちの中で湧き上がる強い感情は、目に見えるこの物質世界の中にはないとすれば、この物質世界とどういう関係になっているのでしょうか? 拙稿の第二部では、これらの錯覚のようにも思える感覚や感情の作られ方を調べることからはじめます。また同時に、それでは科学の対象であるところの客観的な物質世界とは一体何なのか、という問題をも並行して考えていこうと思います。
(5 哲学する人間を科学する end)
(第1部 哲学はなぜ間違うのか end)
ご愛読感謝。次回からは
(第2部 この世はなぜあるのか begin)
(6 この世はなぜあるのか? begin)
ご愛読を乞う。
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拝読ブログ:デザインと錯覚その3~グニョ~グニョ~します~