ただ、気をつけなければならないことがあります。こういう場合、存在という言葉を使うことが混乱の原因になる恐れがあるからです。哲学が混乱する大きな原因になっています。
自分の身体は目に見える物質ですから、拙稿でも、存在するという言葉を使ってよいことにしています。ただ、自分の身体は目に見える物質世界の存在であっても、前に述べたように、それは私たちが感じる視覚や触覚から生ずる存在感だけを頼りに存在している。このことを忘れないようにしましょう。これを忘れて、自分の身体やこの世界全体が素朴に実在するという前提から始めようとすると、二元論からは永久に脱出できませんよ。
一方、意識には存在感はありますが、目に見えない錯覚の存在感ですから物質としては存在しません。慎重に言葉をつかうべきならば、「A君は意識がある」という代わりに、「A君の身体運動については、いわゆる意識という機能を期待できる」というべきでしょう。まあ、伝統ある自然言語の使い方を、筆者などが修正できるはずはありませんね。こういう問題に関して、消去的唯物論と呼ばれる現代哲学の一派では、心や意識、信念、欲望など、目に見えない心理学的概念の存在を否定し、将来はその代わりに、人間どうしの感覚的共感、というような非概念的な情報共有を基にして、心を理解できるのではないか、という提案をしています(たとえば、一九八一年 ポール・チャーチランド『消去的唯物論と意図的態度』)。(拙稿の見解は消去的唯物論とは違いますが、)この提案には筆者も共感します。
脳の中に意識は入っていない。ちなみに、目覚まし時計の中に目覚ましは入っていない。飛行機の中に旅行は入っていない。ピストルの中に殺人は入っていません。
(サブテーマ:意識はなぜあるのか? end)
(次回からは、サブテーマ:欲望はなぜあるのか?)
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