哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

観察者が感じることが重要

2007年09月26日 | x1苦痛はなぜあるのか

Bouguereaulamour_au_papillon_1 「苦痛は人体のどこに存在するか?」と聞いてしまうと、私の人体も脳も含めてこの物質世界には苦痛は存在しない、という答えになる。苦痛は、人体のどこかの部分にそれが存在するという言い方をするときには意味がなくて、ある人が(主体として)それを感じる、というときにだけ意味があるわけです(一九六九年 ダニエル・デネット『説明の個人および部分個人レベル』)。

ほかにも苦痛に関して、現代哲学では、いろいろ面白い論議がされています。たとえば、苦痛という素朴な心的表現を避けてうまく別の言葉で表現することで、苦痛を客観的に捉えようという試みが、研究されています。「苦痛」といわずに「苦痛があるようにみえる行動を起こすもの」ということにすれば、それは脳のある物質的状態を指すから、そうやって苦痛を物質現象として決め付けられる(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』既出)とか、いやそれはだめだ、気違いとか火星人がする苦痛のような行動は脳の状態が違うだろう(一九八〇年 デイヴッド・ルイス『狂人の苦痛と火星人の苦痛』)とか、興味深い諸説があります。ちなみに筆者の見解は、苦痛とみえる行動に対応する(脳状態など)物質現象が決め付けられるかどうかというような議論は重要ではなく、その(自分のも含む)人体の変化として観察する私たち観察者の脳機構がそれを苦痛と感じることが重要であり、それ(苦痛と思えること)が苦痛の意味だ、というものです。

私たちが苦痛と言っているものは、この客観的物質世界には存在しないという意味で、錯覚というべきものです。私たち人間は、人の表情や声色など運動の外的な表れ方と自分自身の内部感覚とを手がかりにして、それが存在しているかのごとく言葉で言い表すことで、(前述の心や欲望と同じように)その錯覚を共有し便利に使っているわけです。(存在については、次次章で拙稿の見解を述べる予定)

(サブテーマ:苦痛はなぜあるのか end

(次回からはサブテーマ:私はなぜあるのか)

拝読ブログ:代哲学~クリプキ

拝読ブログ:『哲学者は何を考えているのか』(インタビュー集) 

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世界の捉え方と言語のあり方

2007年09月25日 | x1苦痛はなぜあるのか

「あの人に苦痛がある」という言い方の意味は、「私が苦痛を感じるようにあの人も苦痛を感じるのではないかと私は感じる」ということでしょう? そして、「(話し手が聞き手に向かって)あなたも私も、それぞれ自分の身体で感じられる苦痛を、お互いに理解できるということにしましょう。その上で、あの人も同じような苦痛を感じていると想像しましょう」、という暗黙の了解を求めている。もちろん、私たちがいつも、こんなふうに論理的な図式を意識して言葉を使っているわけではありませんが、無意識の直感で人の苦痛の表情を見て取り苦痛を感じ取ると同時に、こういう図式を暗黙の前提として「あの人に苦痛がある」という言葉を発するのです。聞き手も同じ前提を直感で理解していて「あの人に苦痛がある」という言い方を受け取る。このような会話をしているとき、私たちは必ずしも、この物質世界のどこかに苦痛という実体が存在する、といっているのではありません。スムーズに話を通じさせるために、言い換えれば、その苦痛が想像できるということの共感を共有するために、「苦痛がある」という便利な言い方を使うことにしているのです。

世界の捉え方と言語のあり方との関係を厳しく観察した二十世紀の哲学者たちは、苦痛をよい例題として自説の議論展開に使いました。たとえば、苦痛そのものの存在とは関係なく苦痛という言葉は使われる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出)という考えや、苦痛を感じるということは、感じている人間の脳(あるいはロボットの電子回路)などの状態ときっちり対応しているのではなく、その物理的システムの具体的仕組みだけからは説明しきれない上位の機能として捉えるべきだ(一九八八年ヒラリー・パトナム 『表現と現実』既出)、という考えなどが、現代哲学の考え方を代表しています(これらの考えの筋道は拙稿の論法と似ていますが結論は違うので注意→第13章で存在について拙稿の見解を述べる予定)。

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物質世界に投影された錯覚

2007年09月24日 | x1苦痛はなぜあるのか

Bouguereaubiblis その棘が痛い、と感じたとき、本当にそこにある棘が痛いのか? 隣の人に聞いてみた場合に「そうだよ。その棘は痛いよ」と言ってくれれば、その棘は、やはり痛いのだな、と思えばよいわけです。「刺されたことがないから分からない」と言われてしまえば、もう、その棘が痛いと言っても人には通じない。その棘が痛い、という言葉の意味はないことになります。隣の人がどう言うかによって、棘は痛かったり、痛くなかったりする。このことは、痛みというものが、棘という物質のなかにあるものではないことを示している。つまり痛みは物質に含まれているものではないのです。

では、自分の手が痛い、と感じたとき、本当に手が痛いのか? 目に見えるその右手が痛いのでしょうか? 切り傷があって血が出ているし、皮膚も赤くなっている。触ってそこを押してみるとずきんと痛みを感じる。どう見ても、明らかに目に見える右手の傷が痛んでいるらしい。

でも、痛みを感じているのは右手そのものではないでしょう? その証拠に麻酔によって右手から脳に来る神経信号を遮断すると痛みは感じられなくなる。では、痛みは脳にあるのか? 脳細胞を顕微鏡で見てもはっきりと痛みを示している物質は見えない。ある種の神経伝達物質が分泌され一群の脳神経細胞が活動していることが、その手の傷の痛みだ、ということになるのでしょうか? そう言われれば、そういう気がしてきます。でも、それは、手の傷を見て、ここが痛い、と思うことと同じでしょう? 身体のその部分から痛みが発生している、といわれれば、そこから痛みが来るような気になる。それは暗示によってそう思うだけです。実際、私の肉体、私の脳、という物質のどこかに、今感じているこの痛みが、本当にあるのか? 

そういう気がする、というだけでしょう。そういう気がすると、私たちは物質に痛みがあるように感じる。バラの棘に痛みがある。自分の手の傷に痛みがある。脳の神経細胞の活動に痛みがある。どれも暗示による錯覚といえる。そういう気がするというだけです。

私は間違いなく苦痛を感じる。けれどもその苦痛は、この物質世界にはない。私が感じるものが、すべて、この世界に存在しなければならない理由などないわけです。むしろ私が感じるものの一部分だけが、この物質世界を作っている。特に視覚と触覚と聴覚で、私がそこにあると感じるものだけが、仲間の人間と一緒にそれを観察することができてその存在感を明らかに共感できることで、この物質世界を作っているのです。

バラの棘が痛い、ということで話が通じれば、棘に苦痛がある。手の傷が痛い、ということで話が通じれば、手に苦痛がある、ということです。それは苦痛が物質世界に投影された錯覚です。同じように、脳が苦痛を感じる、ということで科学者の間で話が通じるとしても、それは物質世界に投影された錯覚について、話し合っているのです。

拝読ブログ:親知らずを抜く 二本目

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苦痛を顕微鏡で観察

2007年09月23日 | x1苦痛はなぜあるのか

視覚と聴覚と触覚でだれもが感じられると思われるものごとだけから私たちの脳内に作られた模型が物質世界だとすると、そこに含まれるものは当然、私が感じるもの全体ではなく、その一部分でしかありません。つまり、私の感じる自分自身の、あるいは他人の、苦痛、かゆみ、物質の存在感、感情、あるいは命、心、というようなものは目に見えず、耳に聞こえず、手で触れません。視覚と聴覚と触覚で、だれもが同時に感じられて、指差せるようなものごとではない。これらは、だから、物質世界から見ると錯覚でしかない。こういうものの存在感は、主観的には、私たちはそれぞれ身体の内部でかなり強く感じられますが、客観的には、だれとも共有できる物質世界の中にはないことも明らかです。だから、苦痛やかゆみなどの主観的感覚を客観的な物質世界の中で探そうとすると、いくら科学を極めてもどうしても見つからないのです。

客観的な物質世界には、命や心が存在しないのと同じ理由で、苦痛も存在しない。本人が苦痛を感じるというときに活動している神経機構が、物質としてのその人の脳の中に存在する、ということだけが物質世界での事実です。他人の脳の神経機構が苦痛を感じているらしい化学変化を示すところを顕微鏡で見ることができたとしても、私たちは、他人の苦痛そのものを感じることはできない。

たしかに、他人の表情や声色や、傷からの出血などの具合から、直感的に他人の苦痛を感じ取る神経機構が、私たちの脳には備わっているらしいという科学的証拠はある。しかし、その神経機構の感度も個人差があるらしく、鈍感な人と敏感な人の差はかなりありそうです。

拝読ブログ:主観/客観、交換可能性/交換不可能性

拝読ブログ:鈍感力

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物質世界=現実世界

2007年09月22日 | x1苦痛はなぜあるのか

Bouguereaubather この物質世界は、それを他人も感じるだろうと私が感じられるものだけからできている。私と他人が共有できるものだけから、できているわけです。ということは、つまり、この物質世界は私が感じるものの全部ではなくて、一部分だけからできている、ということになる。この物質世界には存在しない多くのものをも私は感じることができる。それが事実です。

存在するとか、存在しないとかについての話を、これより先に進めるには、さらに慎重に考える必要がありそうですので、後で、改めて詳しく論じることにします(存在するものとしないものとの関係については第13章で考察予定)。

さて、他人が物質に何かをしている光景を見て私がはっきりと感じられるものは、その物質がその人の視覚にどう見えるか、聴覚にどう聞こえるか、触覚にどう触れるか、ということです。その物質が人間の場合、つまり、私以外の人間が、第三の人間に何かしているのを私が見て、私が感じられることは、やはり、第二の人から見て、第三の人がどう見えるか、その声がどう聞こえるか、その身体に触るとどう感じられるか、くらいなものです。第二の人が第三の人の苦痛をどう感じるか、第三の人の心をどう感じるか、ということは私には、ぼんやりと分かるような気もしますが、実ははっきりとは感じられません。

人間が人間を見て直接分かることは、こんな程度です。慧眼の士は人心の奥を見抜く、とはいわれますが、それは、いかに優れてはいても、経験と理論による推測であって直接の感覚ではないでしょう。こういう事情から、人間がこの世界で自分の身体以外のことで、直接はっきりと分かることは、基本的に視覚と聴覚と触覚で感じられる物質現象だけから作られている。自分だけでなく、だれが見てもそう見える、と思われるものごとは、物質現象だけです。そういうものが、この世、つまり現実世界だ、と私たちは思っている。

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