「苦痛は人体のどこに存在するか?」と聞いてしまうと、私の人体も脳も含めてこの物質世界には苦痛は存在しない、という答えになる。苦痛は、人体のどこかの部分にそれが存在するという言い方をするときには意味がなくて、ある人が(主体として)それを感じる、というときにだけ意味があるわけです(一九六九年 ダニエル・デネット『説明の個人および部分個人レベル』)。
ほかにも苦痛に関して、現代哲学では、いろいろ面白い論議がされています。たとえば、苦痛という素朴な心的表現を避けてうまく別の言葉で表現することで、苦痛を客観的に捉えようという試みが、研究されています。「苦痛」といわずに「苦痛があるようにみえる行動を起こすもの」ということにすれば、それは脳のある物質的状態を指すから、そうやって苦痛を物質現象として決め付けられる(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』既出)とか、いやそれはだめだ、気違いとか火星人がする苦痛のような行動は脳の状態が違うだろう(一九八〇年 デイヴィッド・ルイス『狂人の苦痛と火星人の苦痛』)とか、興味深い諸説があります。ちなみに筆者の見解は、苦痛とみえる行動に対応する(脳状態など)物質現象が決め付けられるかどうかというような議論は重要ではなく、その(自分のも含む)人体の変化として観察する私たち観察者の脳機構がそれを苦痛と感じることが重要であり、それ(苦痛と思えること)が苦痛の意味だ、というものです。
私たちが苦痛と言っているものは、この客観的物質世界には存在しないという意味で、錯覚というべきものです。私たち人間は、人の表情や声色など運動の外的な表れ方と自分自身の内部感覚とを手がかりにして、それが存在しているかのごとく言葉で言い表すことで、(前述の心や欲望と同じように)その錯覚を共有し便利に使っているわけです。(存在については、次次章で拙稿の見解を述べる予定)
(サブテーマ:苦痛はなぜあるのか end)
(次回からはサブテーマ:私はなぜあるのか)
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