私たち現代文明の中に生きる人間は、客観的物質世界をみごとに映し出す自然言語を持っている。十数万年以前に作られた自然言語が、書き言葉の出現をきっかけとして正確に知識を語るようになった。科学に見られるように完璧に物質を描写し、さらに文学や心理学に見られるように人間の内面をも描写できるように思えるまで洗練されてきた。このように社会生活の中であまりにも役に立つものとなった結果、私たちは、自分たちの言葉が、物質でない物事をもすべて完全に言い表せると思い込んでしまっている。しかし人間の言語は、その作られ方からして、物質世界しか正確には言い表せない。物質世界を言い表している主体そのものについて語ろうとするとき、私たちの言語は、それを言い表すことができない。それなのに、人間は、自分たちの思いのすべてを言語で言い表そうとする。そこから哲学の混乱が始まる。
このことには何の神秘もありません。言語の限界をわきまえない、言葉への過信による混乱、が起こっているだけです。ここに神秘があると思うのは錯覚です。唯物論も観念論も物心二元論問題もハードプロブレムも、哲学はすべてここから間違っていったのです。
(サブテーマ 存在はなぜ存在するのか? end)
(次回からはサブテーマ それでも科学は存在するのか?)
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