哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

出会いを切に願って

2006年11月30日 | 1哲学はなぜ間違うのか

これは非常に困難な状況である、ということを筆者も心得ています。過去の学説を解説したり補足したりするというのでもない。まったく新しい学説を理論的に提起するというには実証的な方法論に欠けている。またプロではないので自分の楽しみが先に立ってしまい、話はすぐわき道にそれるし、理論展開もときどき興味本位の強引な飛躍が出てしまう。つまり学術理論としてみれば粗雑かつ未熟すぎて使えないレベルのものです。将来、もしかしたらなりたつかもしれない新しいアイデアを、ぼんやりと示しているというだけでしょう。

実際、筆者の経験からしても、こういう条件で書かれたものを読んで読むに値する情報が手に入ることは滅多にありません。読者の皆さんは、時間の無駄になることを覚悟して読むしかない、とお思いになるのが普通でしょう。

ですが、(ここまで、お読みになってしまったからには)願わくはその警戒を解いて、素直にご自分の直感的な常識に従って拙稿を楽しんでいただけませんでしょうか? あまり役には立たないかも知れないが、まあ面白い、という程度の話がひとつか、ふたつ、うまくすれば五個くらい、見つかるはずです。世間の常識から飛び離れた風変わりなアイデアなら、いくらでも見つかることを保証します。賛同していただけなくても楽しんではいただけるでしょう。たぶんごく少数の、そのような寛大な心を持った読者との出会いを切に願って、筆者は書いていきます。

Hatena07

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大哲学者のブランド

2006年11月29日 | 1哲学はなぜ間違うのか

しかし有名な学説の解釈やそれに基づいた展開をしないということは、学術的な権威からして何もない筆者が、過去や現代の大哲学者のブランドを全然利用できないわけです。大きな権威に保証されてブランド化された知識だけを信頼し、権威の裏書がない怪しげな情報は無視するという知恵は、人類が獲得した重要な知的能力です(インターネットの時代を生きるには必須の能力でしょうね)。拙稿の賢明な読者も、当然、そう考えるでしょう。良質の情報を効率よく得るためには、伝統的古典的知識を踏まえて語る世に名の通ったプロの学者が書いたものを読むべきです。正統的学問から外れた新しい言説などを信用しては危ないのです。

そういうことで、名も通っていないアマチュアが書いたものをまじめに読む気になるには大学者名のブランドや権威による裏書が絶対に必要、というのが筆者の持論だというのに、拙稿はこんなことで読者を獲得できるのでしょうか?

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アマチュアの興味

2006年11月28日 | 1哲学はなぜ間違うのか

そこで筆者は、プロではなくアマチュアとして、普通の常識と現代科学の基礎知識(ネイチャーに載っている程度の確定した科学知識)だけにもとづいて自分で考えて、書いてまとめてみることにした次第です。アマチュアはプロがするような論戦に勝つための格闘技や隙を見せない緻密な防衛技術には興味がなく、かなり遠くの外側から、おおざっぱに眺めて楽しむだけです。自分が知りたいことだけを楽しんで調べるアマチュアの興味の対象は、全人格をかけて学問を職業として確立しなければならないプロの仕事とは、ある意味で、正反対ともいえます。

右に述べた理由で学術報告にするには程遠いテーマですし、アマチュアが形だけプロの真似をするのもおかしいので、拙稿は論文のような体裁はとりません。先哲の仕事を解釈して引き継ぐほどの義務もなし。プロのように、先輩学者を尊敬したり入れ込んだり、という姿勢を見せる必要もありません。責任をもって準拠できるほど精読した哲学の書籍もないので、たまたま読んだ関連文献の名を参考としてあげることはあっても、それらを土台にした議論展開はしません。難解な哲学用語も使う必要がありません(というか、あまり知りません)。おかげで一般の読者には分かりやすい代わりに、プロの研究者には(もし光栄にも読んでもらえるとしても)かえって読みにくいものになっているはずです。

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プロはしない

2006年11月27日 | 1哲学はなぜ間違うのか

この十数年、脳科学研究者の努力によって、fMRI(機能的磁気共鳴断層撮影)など電気磁気のコンピュータスキャニングで脳神経系の活動を脳の断層画像として記録する技術はかなり進歩してきましたが、まだまだ、神経活動を機能に対応できるほど微細にかつシステム的に観測する方法は開発されていません。新しい原理による測定装置が発明されて飛躍的に精密な観測がなされ、脳における言語活動などの総合的かつ具体的な作動メカニズムが科学として解明されるには、(かなり先になりそうな)次の時代を待たなければならないでしょう。

人間の知的活動と脳の作動機構との対応について、神経回路ネットワークの単位で実証的に研究する強力な方法が見つかっていない現在のこのような状況から、この境界領域での仮説的なアイデアは、プロの研究者のまともな仕事には向いていないわけです。筆者も自分が若いプロの現役研究者だったら、たぶん拙稿のようなものは書かないでしょう。

そんなような理由で、拙稿が扱おうとしているこのテーマは、だれも興味を持たないということではないとしても、科学者の議論でも哲学者の議論でも、プロの仕事場からはこぼれ落ち、職業研究の成果としての文献や報告となって世間の表には出てこないのです。

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哲学という行動

2006年11月26日 | 1哲学はなぜ間違うのか

人間が、自分とは何か、とか、哲学の神秘とかを考えるときと目の前の物質の存在を考えるときとでは、脳の働きはどう違うか? そういう話をするとき、話し手と聞き手の共感はどう作られるのか? 一緒にご飯を食べているときやセックスしているときとは、どう違うのか? 協力して縄文式土器を作っているときや天体物理学の数式を語り合うときとは、どう違うのか? それらの脳機構はどう進化したのか? それらの哲学に関する行動や課題を表わす言葉は、人類の進化において、どのように発生したのか?

こういうテーマについて、筆者はこの十年来、(アマチュアとしては)かなり熱心に内外の人文系および自然科学の論文、研究書その他の文献を探しましたが、明快に議論を展開している文献は見つかりませんでした。たぶんその理由は、こういうテーマを学術研究の対象にするには方法論が未熟すぎるからでしょう。

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