哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

頭蓋骨の中に無線機

2007年09月30日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereaunymphes_et_satyre 次のようなSF的設定を考えてみましょう、私のこの身体が、眠っているうちに異星人に手術されてしまって、脳は異星人の宇宙船のカプセルに移されてしまいました。脳の代わりに頭蓋骨の中に無線送受信機を埋め込まれた私の身体は地球上の私の家に戻されますが、運動神経と感覚神経を無線機に接続されて、宇宙船内に置かれたカプセル内の脳と電波回線でつながっています。そのとき、自分の家のソファに座った私が目の前のリンゴをむいて食べて、おいしいと感じても、それは宇宙船にあるカプセルの中の脳がそういう神経活動をしているということではありませんか? そういうときも、この人体が私なのでしょうか? さらに、異星人が、ますます実験熱心になって、私の記憶を消去してから、私とは別の人間、X君の頭蓋骨の中にさっきの無線送受信機を移設したらどうなるでしょうか? 私はX君に乗り移ってしまって、その肉体を自分だと思うようになるわけです。だって、記憶は全部X君の持っていた記憶データに置き換えられているし、周りに見える風景は、X君の両眼で見ている風景だし、私がつねって痛い頬っぺたはX君の頬っぺたなのです。そのX君が、まさに、今この私だと思っている肉体なのかもしれません。そんな馬鹿な! と笑い飛ばすSFマンガの世界です。

しかし、そうでないという証拠はありません。異星人にそういう変なことをされていない、という保証はありません。私たちの経験から推定すると、その確率は無視できるほど小さいだろう、と思えるだけです。

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拝読ブログ:考えるだけで動きをコントロール出来る車椅子「Audeo」(動画)

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バーチャル空間⇔実空間

2007年09月29日 | x2私はなぜあるのか

私のこの肉体といっても、ただの物質です。他の物質に比べて特別に神秘的な仕掛けになっているはずはありません。他の人体と比べて、全然違う、というほどの特徴があるわけではない。世の中にある人間の身体は、性別、年齢も違えば、サイズやプロポーションや肌の色も違いますが、基本的な構造はどれもそっくりです。他の人体のどれかが私でも、なんの不思議もないはずです。ある人体の筋肉が私の思うように動いて、その両目の位置からのぞいた映像として周囲の風景が見える、とすればどうでしょうか? その人体の感覚器官が感知した感覚信号をすべて私が感じられるなら、まったく問題なく、この身体が私だ、ということになってしまうでしょう。よくできた遠隔操作ロボットでは、バーチャルリアリティの技術を使って、運転者がロボットになりきった気持ちで運転できます(二〇〇五年  『遠隔通信、テレイマージョン、テレイグジスタンス』)。こういう技術がもう少し進めば、何千キロも離れた外国の町においてある人間そっくりのロボットに乗り移ったまま、そのロボットの身体を使ってご飯を食べたりセックスしたりして、食欲や性欲を満足させられるでしょう。インターネットのバーチャル空間を実際の世界で実現できるわけですね。

現在の技術はまだそこまでいっていませんが、いずれはこういうものが実現するでしょう。こういうものが原理的に成り立つということは、自分の身体というものはこの一個しかないと思い込む必要はない、ということです。このことを私の視点からいえば、私の運動指令と視覚映像と体性感覚等の感覚との関係が、全体としてあるひとつの人体を原点としているように感じられて、それがいままでの経験記憶と違和感なくつながっていれば、その人体を私の身体だ、と私は感じるわけです。今改めて考えてみても、それ以外に、ここにあるこの人体が私だ、と私が感じる仕組みはなさそうですね。

拝読ブログ:アイロボットの新製品2―ConnectRLooj

拝読ブログ:「混在する現実とバーチャル」-僕の考える

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客観的空間に身体感覚を投射

2007年09月28日 | x2私はなぜあるのか

Bouguereaule_ravissement_de_psyche この物質世界の中で、私の手足がどこにあるか、目をつぶっていても分かります。自分の身体のすべての骨、筋肉、皮膚がどこにあるか分かる。正確にいえば、動かせる骨と骨格筋はどこにあるか分かる。ものに触れる皮膚はどこにあるか分かる。これは体中に張り巡らされた感覚神経系からの神経信号が脳幹、視床から大脳皮質頭頂葉などで変換されながら伝達されてできる身体姿勢感覚です。

それで体内感覚で感じられる私の身体を、目で見えるこの物質世界にあるこの自分の身体にぴったり対応させられる。客観的空間に身体感覚を投射できるわけです。これは赤ちゃん時代に、ベビーベッドの上で手足をバタバタさせてめちゃめちゃな運動を繰り返すことで修得した、脳の機構でしょう。

脳に作られたこの機構によって、私たち人間は、この物質世界にある自分の人体を自由に動かして運転している気になっているのです。

鏡に映る私も私と分かるし、写真やビデオに写る私も、間違いなく私と分かります。他人の視線がこちらに向けられた瞬間、その人の心に写っている私の姿が、想像で分かります。

そういうものを、私だと思ってずっと生きてきたから、そう思うのです。それに、それを私だということにしておけば、だれとでも話が通じる。だから、ここにあるこの私らしい身体が、私が感じていること、考えていること、を作りだしているに違いない、という気がします。

しかし、本当にそうでしょうか?

拝読ブログ:身体感覚

拝読ブログ:こんなことやってるから原稿が終わらない

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私はなぜあるのか?

2007年09月27日 | x2私はなぜあるのか

(サブテーマ:私はなぜあるのか begin)

12  私はなぜあるのか?

 

この世の中に私が存在することは明らかです。鏡で見なくても、私が私だと思っている物質のかたまり、つまり私の肉体、がここにあることは間違いありません。

しかし、本当に、ここにあるこの人体は私なのでしょうか? 

こんなあたりまえのことを疑問に思う人は少ないでしょう。ばかな質問としか思えませんね。

「私のこの身体は、本当に私なのかしら?」とボーイフレンドに言ってみましょう。そろそろ別れたいときにはいい方法ではありませんか?

さて、まじめに答えるのもばからしいですが、あえて答えるとすれば、「私が思うとおりにこの手足は動くし、頬っぺたをつねれば痛いから、この手足と頬っぺたは明らかに私だ」

しかし、実は、これは答になっていません。

「このパソコンの印刷アイコンをクリックすればそのプリンターが動くから、そのプリンターは、このパソコンのプリンターだ」という言い方に似ています。しかしせっかくそう言っても、プリンターの指定設定を変えてしまえば、ネットワークに繋がっている別のプリンターが印刷を始めるだけです。どのプリンターも量産品だから同じ構造をしている。そのうちのひとつだけが、たまたまこのパソコンの印刷指令にしたがうからといって、それがこのパソコンの一部だ、といえるか?

この世界にある同じようなたくさんの人体のうちの一つが、たまたま私の思うように動いて、その眼球に仕込んであるビデオカメラの位置から撮影しているような画像を私が感じられるように送ってくるからといって、なぜその身体が私なのか? なぜ、私が今考えていることや感じていることのすべてが、その人体の中にある脳の活動だといえるのでしょうか?

拝読ブログ:プリンタ 印刷できない

拝読ブログ:[右脳]

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観察者が感じることが重要

2007年09月26日 | x1苦痛はなぜあるのか

Bouguereaulamour_au_papillon_1 「苦痛は人体のどこに存在するか?」と聞いてしまうと、私の人体も脳も含めてこの物質世界には苦痛は存在しない、という答えになる。苦痛は、人体のどこかの部分にそれが存在するという言い方をするときには意味がなくて、ある人が(主体として)それを感じる、というときにだけ意味があるわけです(一九六九年 ダニエル・デネット『説明の個人および部分個人レベル』)。

ほかにも苦痛に関して、現代哲学では、いろいろ面白い論議がされています。たとえば、苦痛という素朴な心的表現を避けてうまく別の言葉で表現することで、苦痛を客観的に捉えようという試みが、研究されています。「苦痛」といわずに「苦痛があるようにみえる行動を起こすもの」ということにすれば、それは脳のある物質的状態を指すから、そうやって苦痛を物質現象として決め付けられる(一九八〇年 ソール・クリプキ『命名と必要』既出)とか、いやそれはだめだ、気違いとか火星人がする苦痛のような行動は脳の状態が違うだろう(一九八〇年 デイヴッド・ルイス『狂人の苦痛と火星人の苦痛』)とか、興味深い諸説があります。ちなみに筆者の見解は、苦痛とみえる行動に対応する(脳状態など)物質現象が決め付けられるかどうかというような議論は重要ではなく、その(自分のも含む)人体の変化として観察する私たち観察者の脳機構がそれを苦痛と感じることが重要であり、それ(苦痛と思えること)が苦痛の意味だ、というものです。

私たちが苦痛と言っているものは、この客観的物質世界には存在しないという意味で、錯覚というべきものです。私たち人間は、人の表情や声色など運動の外的な表れ方と自分自身の内部感覚とを手がかりにして、それが存在しているかのごとく言葉で言い表すことで、(前述の心や欲望と同じように)その錯覚を共有し便利に使っているわけです。(存在については、次次章で拙稿の見解を述べる予定)

(サブテーマ:苦痛はなぜあるのか end

(次回からはサブテーマ:私はなぜあるのか)

拝読ブログ:代哲学~クリプキ

拝読ブログ:『哲学者は何を考えているのか』(インタビュー集) 

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