初めて会う他人に対すると、その人は目に見える顔やその身体そのものというよりも、実は、こちらからは目で見えないその脳の奥の、深い真っ暗なところに静かに座っていて、黙ってこちらをじっと見ているのかもしれない、という気がしませんか? 見ず知らずの他人というのは、そんな感じがして、顔はにこやかに笑っていたとしても、すぐには親しみが持てないものでしょう。会話を始めて、さらに冗談を言い合って、あはは、と笑いあうと、やっと心が通じるような気がする。だがそれも、笑い顔は、まだちょっと緊張しているように見える。向こうも、こちらが感じていると同じようにぎこちなさを感じているらしい、と想像できます。だから、にこやかに笑っているのも、演技ではないかと疑ってしまえば疑えないこともない。そういうことですから、人間どうしは、なかなか相互理解は難しい。親しい人と見ず知らずの人とは、きちんと区別してその心を感じるように、私たちの脳神経系はできているようです。そういう脳神経系の仕組みが、原始時代の人々の間では、生存繁殖の成功率をあげたのでしょう。
人間どうしが相互理解するには、言葉が不可欠と思われます。また逆に、相互理解がなければ、言葉は使えないでしょう。しかし、私たちが実際に使っている言語は、不完全な錯覚を組み合わせたあやしげな影のようなものです。その言語を使って行われる人間の会話は、すれ違う錯覚のずれをさらに新しい錯覚で補いながら進められている。人間には、直接他人の心は分からない。その分、自分の心も分かりません。それでも、なんとなくは分かるような気がする。しかしそれは錯覚です。そう錯覚する働きが人間の脳には備わっているのです。それで人間は互いに相互理解できると思い、結果的に仲良くなれるし、互いに仲良くならなくては生きていけない社会をつくりました。そういう人間たちが集まって集団として協力できるようになり、現在あるように上手に生きているわけです。それが、人類という動物が脳の新しい仕組みとして進化させた、心(という錯覚にもとづく理論)の、生物学的な役割だといえます。
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