しかし、自分たちの脳の機構もその集団的共鳴の機構もよく分かっていない私たち現代人の浅い知識だけにもとづいて、これ以上、新しい錯覚を大量に作り出すのはよくない。特に、錯覚を操作する言葉のゲームに、これ以上、熱中したりすることは危ない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、こういう言葉で表わされるもの、それら目に見えない、物質世界には実体がない(どのように実体がないかについては拙稿第一部と第二部を参照)、メタフィジカルなもの、つまり集団共鳴による錯覚を、あまりまじめに追求してはいけない。心とか自分とか命とか生死とか存在とか、とても便利な言葉ではある。けれども、そういう言葉のさらに奥底に、私たちがふつうに分かっていることより深い意味が見出せるかもしれない、という間違った期待を抱いてはいけません。
それら錯覚を、個人が強い神秘感を伴って内面化したり、ラジカルに深く議論したりすることは危険です(どのように危険か、については拙稿第一部と第二部を参照)。哲学は、古来、その危険を冒す行為として始められた。まじめな哲学者ほど、危険に気づかずに落とし穴にはまっていった。哲学が抱え込んでいるその間違いを、拙稿は指摘してみました。
まあそれでも、筆者などでもこれに気がつくくらいに、現代では、原子や宇宙や人体など、物質に関する科学の実績が深まり、従来の哲学の領域を深く侵し始めている。いずれそれほど遠くない将来、有史以来の哲学が格闘してきたメタフィジカルにみえる謎や神秘や錯覚の正体も、哲学用語を使わずに、物質の言葉で明快に表現できる時代が来る(と筆者は確信しています)。
あるいは、脳内の神経活動を画像や音で直接リアルタイムに受け手の視覚と聴覚に伝える便利な装置が開発される。あるいは、哲学を講義するロボットを作れるようになる。あるいは、筆者のように哲学に懐疑的な話をしたがるロボットも作ることができる。もしそのようなときがくるとすれば、人間どうしの相互理解は完全に近くなるはずです。そしてようやく、哲学は科学を羨む必要がなくなるのでしょう。
(18 私はなぜ言葉が分かるのか? end)
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