たしかに、階級制度の時代の身分差別も、現代の性差別も、人種差別も、差別はまったくけしからんことです。しかし、いわゆる現代の格差による不幸の問題とは違って、それら差別による不幸は、差別される個人の努力によって解消ないし緩和されるべきだ、と思われることはない。そのために、身分差別による不幸は個人的努力の対象にはならない。つまり、個人としては、あきらめるしかなかった。あえて言えば、あきらめやすかった、ともいえる。昔は、よくないことですが、身分を知れ、分相応に生きろ、という教育がありました。それぞれの身分に甘んじて生きれば、それなりの幸福を得られる、という教育があった。また昔は、偉大な宗教があり、死後の平和や死後の平等を教えさとすことで、迷える魂は救済されました。
昔の階級格差と違って、現代の格差は、そうはいかないでしょう。機会均等の原則が広く認められている。生まれながらの身分差別は許されない。それはあきらめるべきではない、とされる。一方、個人の努力の結果で生じる格差は、暗黙に認められ、むしろ奨励されている。個人どうしは、それぞれの人生の幸福を競って競争する。市場経済が、その上になりたち、会社が成り立ち、学校が成り立ち、官僚組織が成り立ち、消費生活が成り立っている。それが現代社会の繁栄を支えていると認められているからです。
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