私たちは物質の存在も感じるし物質でないものの存在もそれ以上に強く感じる。私たちの身体はそう進化してきた。私たちの身体は生まれながらにして二元論の世界を感じとるようにできているらしい(二〇〇八年 ピーター・カルーサーズ『デカルト認識論‐心の自己透過性理論は生得的か?』)。二元論のその世界は論理的に矛盾を含んでいる錯覚の世界です。私たちは直観で「この世界ははっきりとここにあって、同時に私ははっきりとここにいる」と思っていますが、これは二元論の世界観です。もうそこから間違いがはじまっています。その間違いから違和感が生じる。それは神秘感につながっていきます。
しかし、それを言葉で言い表そうとすると、間違いはますますひどくなり、哲学の謎に落ち込んでいく。
拙稿本章では、その違和感について語りました。正面から言葉で語る以上、拙稿であろうと他の文章であろうと、言葉の限界につきあたって、その手前をうろうろとさまようしかない。ここは正面突破をあきらめて、裏に回って入り込む道を探すほうがよさそうです。言語が基礎にすえる存在とか現実とか自我とかいう概念からして、(拙稿の見解によれば)私たちの身体がどう動いていくようにできているかという人体の仕組みの一部分です。私たちの身体は、そもそも、どう動くようにできているものなのか?これより先に進むためには、そこを調べる必要があるでしょう(このテーマは次章で検討の予定)。
(19 私はここにいる end)
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