哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

謎をどう攻めるか

2009年05月23日 | x9私はここにいる

私たちは物質の存在も感じるし物質でないものの存在もそれ以上に強く感じる。私たちの身体はそう進化してきた。私たちの身体は生まれながらにして二元論の世界を感じとるようにできているらしい(二〇〇八年 ピーター・カルーサーズ『デカルト認識論‐心の自己透過性理論は生得的か?。二元論のその世界は論理的に矛盾を含んでいる錯覚の世界です。私たちは直観で「この世界ははっきりとここにあって、同時に私ははっきりとここにいる」と思っていますが、これは二元論の世界観です。もうそこから間違いがはじまっています。その間違いから違和感が生じる。それは神秘感につながっていきます。

しかし、それを言葉で言い表そうとすると、間違いはますますひどくなり、哲学の謎に落ち込んでいく。

拙稿本章では、その違和感について語りました。正面から言葉で語る以上、拙稿であろうと他の文章であろうと、言葉の限界につきあたって、その手前をうろうろとさまようしかない。ここは正面突破をあきらめて、裏に回って入り込む道を探すほうがよさそうです。言語が基礎にすえる存在とか現実とか自我とかいう概念からして、(拙稿の見解によれば)私たちの身体がどう動いていくようにできているかという人体の仕組みの一部分です。私たちの身体は、そもそも、どう動くようにできているものなのか?これより先に進むためには、そこを調べる必要があるでしょう(このテーマは次章で検討の予定)。

(19 私はここにいる end

拝読ブログ:難問は解かない

拝読ブログ:妖精って生きていくうえで必要ですよね♪

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身体が感じる世界

2009年05月22日 | x9私はここにいる

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拙稿の見解では、いわゆる二元論に表れる物質と精神、身体と心、脳と意識、世界と私、などは矛盾する存在ではない。どちらかが現実に存在してどちらかは存在しない、というようなものではない。それらは、それぞれが現実の存在であるかのように身体で感じられるということは事実ですが、そうであるということは、いずれも私たちの身体がそれらの存在感をそう感じるというだけのことです。

私たちが感じられる物事のうちのある部分は、その感じ方を人間のだれとも共有していると感じられる。一方、別の部分は、自分の感じ方がほかの人と共有できないように感じられる。

物質世界の存在は、あまりにもはっきりとだれとも共有できている。それは間違いなく客観的で、しかも言葉ではっきりと言い表せる。物質は明らかな客観的存在です。科学の対象になっている。それは、私たちの身体が物質をそう感じるように進化しているからです。

一方、私の背中の痒さとか、私の自我意識とか、そういう物質でない物事は私にはむしろ物質よりはっきり感じられ、また物質よりずっと大事なことが多い。けれどもそういうことは目に見えないし、言葉でうまく言い表すことができない。その違和感が、神秘と感じられることがある。そこから二元論の問題ができてくる。

拝読サイト:ピアジェ理論の有用性

拝読サイト:ハングリ・アングリー

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哲学の謎

2009年05月21日 | x9私はここにいる

だれもが共感できる物質としての私の身体と、私しか感じられないこの背中の痒さ。どこの皮膚が痒いという程度のことは言えても、それがどのように痒いのか、その痒さの存在感を言葉でうまく言い表すことはできない。私しか感じられないものはうまく言葉で言い表すことはできない。言葉で表現できるものとできないもの、その二つの存在を両方とも認めると二元論になります。

片方はだれの目にも見えるのに、もう片方は私が感じられるだけで目にみえない。片方はうまく言葉で語れるのにもう片方はうまく語れない。うまく語れないほうの物事も身体でははっきりと感じられる。そこで混乱が起こる。それを矛盾と感じたり、神秘と思ったりすると哲学になる。そのことを言葉で語ろうとすると、言葉で語れないものを語ろうとすることになる。すぐに混乱して哲学の謎に落ち込んでしまいます。

拝読サイト:主体と客体

拝読サイト:いま哲学とはなにか

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物質以外の存在

2009年05月20日 | x9私はここにいる

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この現実世界について私たちが言えることは、それだけです。言語を使う限り、私たちの言語が言えることはそこまでです。それ以外のことは言えないし、言う必要がない。

私たちの身体が感じるものだけからできているこの物質世界の中に、私たちの身体があると感じられる。私はここにいる、と感じられる。私の身体は、物質としての私の身体の存在を感じるし、物質以外のもの、たとえば、このラーメンのおいしさであるとか、私の背中の痒さとか、背中を掻きたいという私の欲望とか、人々の心に映る私の痒さでいらついた感情の存在も体感として感じられる。

拝読サイト:蚊に刺されてとるω・` )

拝読サイト:フジ

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真実という理論

2009年05月19日 | x9私はここにいる

拙稿では、この客観的現実も錯覚だという。錯覚というのがいやならば、(拙稿の見解では、こういう場合、あえて錯覚というあいまいな表現を使うほうがよいと思われるが)理論といってもよい。錯覚は無意識のシミュレーションに直感で存在感を感じるときにつくられ、理論は錯覚を言語化するときにつくられる。その意味で、私たちが、いつも、それについて語り合うことができるということから、この現実世界は人間だれもが共有している理論になっている、といえる。

皆で共有している、存在感が強い理論は、身体で感じることができる。私たちの身体の存在が間違いないのと同じくらい、身の回りの、この現実世界の存在は間違いない、と感じられる。それでも、それは理論でしかない。現実という理論です。この現実の客観的物質世界はだれもが客観的に存在していると感じとっている(二〇〇七年 鎌田晶子『透明性の錯覚:日本人における錯覚の生起と係留の効果』)、という理論です。それは単に真実なのではないか、と聞く人もいるでしょう。身体で感じとれるものを真実というならば、それはまさに真実でしょう。それを真実と言いたければ、そういってよい。ただし、真実というのは、いつでも、同時に一つの理論です。

拝読サイト: 透明性の錯覚:日本人における錯覚の生起と係留の効果

拝読ブログ:科学と哲学それぞれの究極の真理、もしくは理論と感性のアプローチの違い。

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