哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

私の人生と芥川龍之介の人生

2010年03月31日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

そもそも、私の人生とは、他の人の人生と区別できるものなのか?

たとえば私の人生と芥川龍之介の人生とはどうやって見分けがつくのか? それは名前が違うとか、有名だとか有名じゃないとか、で見分けられる。生年月日も生誕地も違う。しかし、そんなことは細かいことであって、どちらも人間だということでは、おおざっぱに言えば、同じですね。

顔が違うとか、身体が違うとか、DNAが違うとかで見分けがつくではないか? 芥川龍之介は双子の兄弟はいないはずだから、芥川龍之介以外の人が芥川龍之介のDNAを持っているはずはないでしょう。クローンはいないのか? まあ、芥川龍之介の遺髪か何かが現存していてそれからクローン人間が作られたとすれば、それは芥川龍之介と同じDNA,同じ顔、同じ身体を持っているでしょうね。近い将来のバイオ技術を使えば、それは百人でも千人でも同時に作ることもできそうです。

では仮に、この私が芥川龍之介のクローン人間の一人だとしましょう。そうすると、私は芥川龍之介と同じDNA,同じ顔、同じ身体を持っている。それで私は、自分の人生が芥川龍之介の人生と同じだ、と思うだろうか?

拝読ブログ:アクメとパラの時代ですか?

拝読ブログ:イーオン・フラックス

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人生を読む人生

2010年03月30日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_portraitofagirl

芥川龍之介『或阿呆の一生』は「彼」の経験として書かれている。その「彼」は、芥川龍之介なのか、あるいは芥川龍之介が観察している別の男なのか、あるいはさらに、この文章を読んでいる読者なのか? そのどれでもよいのか?

どれでもよいという気もします。もし、そうならば、「彼」の人生は、今この短編を読んでいる読者である私の人生でもある。少なくとも、これを読んでいるときの私は、「彼」の人生を生きている。逆に、私の人生が或阿呆の一生』のようにリアルに描写されれば、それはそれを読む読者の人生になる。

拝読ブログ:Circle Circus<Ⅱ>

拝読ブログ:kさんへ

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一人の人間でしかない

2010年03月29日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

ものごころついてから、今日の今までに私が経験したすべて。イベントやエピソードのすべて。あるいは意識できる記憶のすべて。文章に書き下せるものもあるだろうし、言葉では言い表せないものもある。そういうもの全体が私の人生である、という気がする。

しかし結局のところ、私の人生の過去といい未来といい、それは一人の人間の行為とその結果を私が感じ取るということであって、感じ取る対象の人間がたまたま私自身である、というだけでしょう。それは他人の人生であっても、人の人生を対象として感じ取るという形としては同じではないのか? 芥川龍之介『或阿呆の一生』の表現のように、三人称で「彼」と書かれた人物は、私であってもよいが、私でなくてもよい。どちらとしても、同じ表現で書ける。

私が感じとる私の人生というものも、 私がそれを自分の人生だから大事に思っているというだけであって、客観的に見れば見るほど、それは、ある一人の人間の人生である、という以外に特異な特徴があるわけではありません。

拝読ブログ:白井晟一「虚白庵」

拝読ブログ:「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規

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人生は記述可能か?

2010年03月28日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

Gerome_pifferariii

芥川龍之介。けつかう現代的な文章ですね。昭和のはじめころ、書き言葉としての現代日本語がかういふふうに完成してゐたのか、と読むこともできる。またこれは、なにか、現代のトヰツタアのやうでもある。しかしこの文章は、よく見ると周到に推敲されている。その文学的技巧はすばらしい。作家が私たちの感性に乗り移ってくる。読者としては、まさに自分自身が今体験していることのように感じられる。

一人の人間があるときに経験したエピソードを言葉で書き連ねる。それを読むと、それはそのときのその人が感じ取った経験のすべてのように感じられる。優れた小説家が書くと、それが可能なのでしょう。しかし、言葉によるこういう記述が人生そのものだ、といえるのか? 

或阿呆の一生』という文章が或阿呆の一生であるのか? あるいは、このような記述の羅列がA君の人生であるといえるのか?

拝読ブログ:散策事始め7 わが源委指向

拝読ブログ:「一九三四年冬―乱歩」 読了

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自分を観察した主観的な記録

2010年03月27日 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

日本文学史上まことに重要な作品ではありますが、拙稿のここでの興味は、その文学的な中身ではなく、人生というものがこのように言葉で書けるものなのかどうか、という問題にあります。

この作品は、作家が自分で自分を観察して第三人称「彼」を用いて記述したもの、つまり三人称自叙伝という類の文学作品だ、とされています。三人称を用いてはいても、「彼は傷みを感じた」とか、「彼は軽蔑した」とか、主観的な内面の動きを記述していることから、これは純粋に客観的な行動記録であるとはいえません。やはり、自分を観察した主観的な記録という形式になっている、といえるでしょう。

著作権はもちろん時効ですから一部を抜粋してみましょう。

彼は彼の先輩と一しよに或カツフエのテエブルに向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
 彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
 そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。
(一九二七年 芥川龍之介『或阿呆の一生』第五節)

拝読ブログ:腎う腎炎で入院して・・・パートⅢ

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