こういう現象は瞬間的な身体運動をする場合ばかりではありません。頭の中で自分の動き方を考えるときも同じ。これから話す内容を考えるときも同じ。拙稿の見解によれば、物事を考えるということや言葉を考えるということは、頭の中で身体運動をすることと同じです。意思決定理論を使って計算するよりも身体に任せて自然に出てくる動きを利用するほうが早い。しかもたいていうまくいく。
実際、どの派閥のだれの味方をすればよいかなどという高度な政治的判断だとか、どの株に全財産を投資すべきか、とかきわめてむずかしい経済的判断の場合、私たちは結局のところ、直感で衝動的に決断してしまう(一九九九年 ゲルド・ギゲレンザ、ピーター・トッド、ABC研究グループ『賢い単純発見的方法』)。身体が動くほうに決める、といってもよい。そして、案外これがうまくいく。
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これはかなり単純な意思決定の場合ですが、実際には行為の選択肢は、たいていA1からA15くらい多くある。さらにそれぞれの行為の結果を経験に基づいて推算しなければならない。さらに、その結果に生ずる利害得失を読んで計算する。さらにその計算誤差の評価も見込まなくてはならない。それらをノートに詳しく書きだしていくと、膨大な量の推定計算をしなければならなくなる。
たとえば、演奏が始まったコンサート会場で鼻をかむために、ノートを取りだしてすべての選択肢を書き出して、それぞれに対する結果予測を書き込みながら、こつこつと推定計算をする人がいるか?いませんね。ノートに書いたり計算したりしなくても、身体運動の場合、私たちは瞬時に意思決定することができる。考えるよりも先に身体が動いてくれる。これは、なぜでしょうか? 紙に書いて計算したら入試問題よりも難しい意思決定問題でも、深く考えずに身体に任せて自然に運動しているうちに、うまく解決してしまう。なぜか?
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意思決定論の教科書には次のように書いてある。
周辺状況の観測→現在可能な行為の選択肢の列挙→それぞれの選択肢を仮に実行した場合のそれぞれの結果の予測→それぞれの結果から予測される利害得失の計算→すべての選択肢についての利害得失の比較検討評価→最適な行為の決定→行為実行。こういう教科書の通りに意思決定を進めるには、ノートに計算を書いていくとうまくできる。
たとえば、行為の選択肢はA1,A2,A3の三択になっている。
A1,A2,あるいはA3のそれぞれの選択結果は、状況S1、S2あるいはS3を引き起こすことになると予測される。S1のゲインは5点、コストは4点とすれば、差し引きの利害得失による得点はプラス1点となる。同様にS2の得点は3点となり、S3の得点は5点となる。そうなると、最高得点5点となる状況S3に到達できる行為A3が、選択すべき行為であることが分かる。
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というように、こういう場面において私たちが次になすべき行動については、意思決定論で詳細に計算できるわけです。世間常識ではその通りでしょう。私たちは、いつも、こうして自分の行動の利害得失を計算しながら行動している、と私たち自身思っています。
しかし、拙稿の見解では違う。これは実際の人間の行動と違う。私たち人間が意識的に行動を予測し、予測結果の利害得失を計算して意思決定していると思い込んでいるのは、錯覚です。
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