哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

21章 end

2010年03月20日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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私たちが感じるこの現実世界は、蟻の巣のように見事な建築物ではある。蟻の身体は、自動的に仲間と協力して蟻の巣を作り上げる。蟻にとっては仲間と協力して行為をなす対象、つまり蟻の巣が世界のすべてでしょう。しかし、それは蟻にとってだけです。

(1 私はなぜ自分の気持ちが分かるのか? end)

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哲学はあまり害がない

2010年03月19日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

呼吸運動などもそうであるように、私は私の身体がどう動いてその錯覚現象が起きているのか、その仕組みは自分では感じられない。私にとっては、物心ついて以来、このような現実世界の中にこうして私の身体があり、私の気持ちがその身体の内部に生じているように感じられる。たしかに、拙稿が指摘したようにこの感じ方は論理的に矛盾がある。二元論という矛盾に陥っている。

しかし、そんなことよりもここで大事なことは、その感じ方そのものが、進化によって発現した私の身体の作りから来ているということでしょう。私がこうして現実を感じとり、自分の気持ちをこうして感じ取っているのは、こう感じとることが、生物としてのこの身体が生存繁殖するために便利であるからです。

その結果、ときには人間は過度の論理に走って、哲学的混乱に行き着く場合もある。しかしそういうことは実生活上、子供を生むことに関してあまり害がないから、自然は無視する。そうして、混乱した哲学は放置されてきました。

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私という生物現象

2010年03月18日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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私の身体の外側に広がっているこの現実世界も、この世界を説明する科学も、私の身体の内側にあって私の身体を動かしているように感じられる私の気持ちも、それを感じているこの私も、全部私の身体が人々と共有する錯覚からできている。それは人々と協力してこの世を生き抜いていくために役に立ったから、私の身体に備わっている生物現象でしょう。

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現実という表現型

2010年03月17日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

見回してごらんなさい。この現実世界は目的に満ちています。あらゆる人の行動はそれぞれの目的を持っている、ように見える。あらゆる物事はそれぞれの目的を持っている、ように見える。次はどうなるか、次はどうすべきか、と身構えている。それは、私たちの身体が物事をそう認知し、それに対応して身体が動いていくからです。私自身の気持ちもまた、目的を持って私の身体を動かしているように感じられる。それも同じように、私たちの身体が私自身をそう認知するからです。

私たちの身体は、世界をも自分自身をも、そう感じとるようにできている。逆にいえば、身体がそう感じとっているものが世界の現実であり自分の気持ちである、というべきでしょう。それは人類という動物の身体が進化の結果作り上げた表現型であるといえる。この現実世界も私自身の気持ちも、人間の足のような足や、人間の顔のような顔と同じように、人類以外には表れない形だといってよい。

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世界という錯覚、自分という錯覚

2010年03月16日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

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私たち人間が共有するこの現実世界、そしてそこに含まれるこの社会や人間たち。それらのすべては、どんなにはっきりとその存在が私の身体の外部にあると感じられようとも、(拙稿の見解では)それは外部にあるものだとはいえない。人類特有の身体から現れてくる生存繁殖に便利な錯覚を、仲間と互いに共有することによって作られたものです(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

私たちが感じとる自分の気持ち、というものもまた、自分だけの身体の内部にあるのではない。仲間の気持ちとの共鳴による共有によって作られている。

目に見えるこの現実世界も、身体の内部で感じられる自分の気持ちというものも、両方とも同じように、世界という錯覚そして自分という錯覚を、仲間の人間たちと共有することで作られている。現代人はそれを誤解して、この現実世界は自分の外面に存在し、自分の気持ちは自分の内面に存在し、かつその二つの存在は互いに無関係だ、と考えるから、混乱した哲学ができてくる。

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