哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

便利ならば真実なのか?

2010年01月31日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_bashibazoukandhisdog

私たち人間は(拙稿の見解では)、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」と、無意識のうちに、思っている。世界の物事の動き方に関して、その変化をそう感じ取るように人間の身体が作られているらしい。

たしかに、物事の動きを、直感で、そう感じ取るような身体を持っていれば、生存繁殖に便利です。生活に関係する物事の動きがうまく予測できる。特に生物の動きをよく予測できる。動物や植物が効率よく生存繁殖をしていく現象をうまく表現できるし、かなり正確にその行動を予測することができる。なによりも人間の動きがうまく予測できるようになります。人の動きや表情を見て、次にその人がどう動くのか、まったく分からない人は、社会の中で、うまく生き抜いていけないでしょう。

しかし物事の動きに関するこのような直感が、人類の生存に便利だからといっても、それがすべての物事の動きを正確に予測できるかどうかは、別問題です。社会的なもの以外の自然現象などの動きを予測するためには、むしろ、数学を使って表現される自然科学の法則によって物事は動く、という科学の見方のほうが正確な予測に向いています。

拝読ブログ:フレッシュプリキュア!-第49回「驚きの真実!メビウスの本当の姿!!

拝読ブログ:Naive totaltarianism

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言語の下敷き

2010年01月30日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

この認知の機構を人間どうしが互いに共有すれば、同じ(分節化による)世界を共有できる。そこから人類の言語が作られてきた。そうして作られた人類の言語は、世界のすべてを言い表せるかのように見えます。むしろ逆に、そうして共有できた分節化をもって世界のすべてだと感じるように、私たちの身体ができている、と(拙稿の見解では)言うべきでしょう。

ちなみに、言語の下敷きになっている現生人類のこのようなものの見方を人間以外の動物が持っているのかどうか、という問題に関しては、現代科学ではまったく解明できていません。チンパンジーやゴリラなどの類人猿に関してばかりでなく、言語習得以前の人間の幼児に関しても、事物の変化とその原因となる意識や意図、あるいは目的や動機との相互関係性を概念的に認知できているかどうかの科学的実証はできていません(二〇〇七年 マーク・ハウザー、デイヴィッド・バーナー、ティム・オドンネル『進化言語学 伝統的課題への新しい視点』)。

拝読ブログ:ラミダス猿人「アルディ」が意味するもの

拝読ブログ:アラ還の親達 (20) 《手毬唄》

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言語=共有化(分節化*予測)

2010年01月29日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

Gerome_astreetsceneincairo

この世界にはYという動きをするXというものがいる、と私たちが仲間と同じように感じとる。そのとき「XがYをする」という分節化が作られる。その分節化が言語を作っていく。そのとき、私たちはこの分節化を共有し、Xが次の場面でどう変化し、どう動いていくかの予測を共有する。逆に、言語は、私たちが共有する予測機構によって世界を分節化し、予測し、認知していく予測機構の共有様式だ、と見なすことができます。

私たち人間は(拙稿の見解では)物事の変化を観察し予測することで認知する。そのとき、その物事自身がその変化を予測してそれを目的として変化する,という見方を使って、私たちは見る。あらゆる物事はこのやりかたで認知できる、と私たちは、無意識のうちに思っている。こうして、あらゆる物事のあらゆる変化は目的を持つこととなる。その結果(拙稿の見解では)、人間も目的を持って行動する、と見て取れるようになります。

拝読ブログ:面談、終わりました

拝読ブログ:memo

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ladies welcome

2010年01月29日 | 

プロローグ 

Bouguereauwet_cupid_3

 かわいさ全開で、しかも全裸の神様が、突然あなたの前に現れました。

「質問してみて! ぼくは愛の神エロス。 この世で一番知りたい謎はなに? えろう難しいやろけど、どんな質問にも答えてあげるよ?」

と言っています。あなたは何を質問しますか? 

あなたは目をパッチリ大きく開いたきり、何も言えません。やっと口が動きます。

「あなたは誰ですか? 裸で寒くないですか?」

 しまった。もう少しましな質問をすればよかった、と後悔します。

 エロスは、さすが愛の神様です。全裸のままなのに恥ずかしげもありません。赤ちゃんと神様は、何かを着る必要がないのです。堂々とフランス人がよくするように、大げさに両手を広げました。首をかしげてからさっきと同じ言葉を繰り返します。もっと難しい質問が欲しいのでしょうか?

 まだ質問の権利はなくなっていなかったようです。今度はすこし落ち着いて、あなたはたぶん次のような事を聞くでしょう。

―なぜ私は楽にお金を儲けるとか、もうちょっとハッピーな人生を送れないのでしょうか? そういう人がたくさんいるのに!

―なぜ、こんなできの悪い私がこの世にいるのでしょうか?

―私はこのまま死ぬのはいやなのですが、やはりこのままで死んでしまうのでしょうか? 死んだら、どうなってしまうのでしょうか?

―こういう神秘的な謎を、人間は永久に解くことができないのでしょうか?

どれも難問です。人生の謎ですね。エロス神は、なんと答えるでしょうか?

こういう類のいわゆる人生の神秘的な謎に答えるのが哲学だ、ということになっているようです。一般にはそう思っている人が多いでしょう。筆者も若い頃はそう思っていました。有名な哲学者の著作を読んで理解すれば、この世の謎や自分の人生の意義について何かが分かると思っていたのです。

しかし残念ながら、それは間違いでした。

この間違いを見抜くためには、ある程度の人生経験と、やや老練な観察眼が必要なようです。筆者は年をとってきたおかげで、この頃やっとこれが分かってきました。

現在の筆者の考えでは、冒頭に挙げたような、大昔からこの世のもっとも神秘的な謎と言われ続けてきた疑問は、実は謎ではありません。

しかも神秘的でもありません。

こういうことを疑問に思うこと自体が、間違いだったのです。

昔の偉大な哲学者たちは難しい本を書きました。人々を悩ませる神秘的な謎を解決しようと懸命に考え抜いていると、難しい文章になってしまうのでしょう。

それで結局、誰もちゃんとした答えは書けませんでした。

なぜでしょうか?

それは、人々を悩ませるそれらの難問が、神秘的で難しいから答が出なかったのではなくて、そもそも問題にすることが間違いだったから答が出なかったのです。

だから、かわいさ全開の愛のエロスも、こういう質問には答えられません。「その質問は、質問になっていないよ?」と、言ってくれるかもしれません。あるいは全裸のまま、もう一度大きく両手を開いて、にっこり笑うだけかもしれませんね。

昔から哲学の問題になっているこの世の神秘的な謎は、実は、はじめから問題になっていないのです。だから解けない。だから哲学の問題になっている。

こう言うと、世界中の哲学の先生から筆者の頭をめがけて、重くて硬い本が飛んできてボコボコに打ちのめられそうです。でも、哲学を否定することも哲学の仕事だということは、本物の哲学者ならよくご存知でしょう。

二十世紀の初めごろから、ヨーロッパではこの問題に気づいた新しい哲学者たちが出てきました。フッサール、ウィトゲンシュタイン、ハイデガー、メルロポンティ・・・。現代哲学の開祖として哲学史に名を連ねるいわゆる大哲学者たちです。それまでの間違った哲学を立て直そうとして、彼らは言葉から作り直しました。

数学のように厳密な論理に基づいて、言葉を基礎から定義しなおし、新しい哲学の本を書きました。しかし、素人にはよけい分かりにくくなった。人工的な新語を作って厳密に説明するわけですから、ますます難解になってしまうのです。

人々は、「どうも昔の偉大な哲学者の本を読んでも、趣味として難解な哲学語を楽しむだけになってしまう。じゃあ現代の哲学者はもう少しましなことを言っているかと思ったら、数学みたいに、分かってもしようがないことばかり研究しているみたいだ。しかたないから哲学とかには関わらないようにしておこう」、と思うわけです。哲学は、真っ向から間違いだと指摘されることはありませんでしたが、頼りにされなくなりました。インテリ風のスノビズムと思われ、結局は人々から見放されていったのです。実際、筆者もそう思って、若い頃買った哲学の本は本箱の隅に押しやっていました。

その後、科学の文献ばかり読んできました。

ところがこの十数年ほどのごく最近の科学の流れの中に、古い哲学の問題に新しい展開を与えられそうな思想が芽生えてきていることに気が付きました。

特に生物科学、脳神経科学、それに行動科学、認知科学、システム工学などの先端研究です。それらの研究者の中には、自分達の研究の延長上に哲学の伝統的な難問へのヒントが横たわっていることに気づいている人たちがいます。そのうちのさらにごく少数ですが、部分的に拙稿の発想と似た考えを書いている人もいます。ただ、残念ながら、それらも断片的なヒントです。なかなか、まとまった学説にはならないようです。既存の専門分野を再整理して、新規の学問分野を作り上げるところまではいかないのでしょう。

そもそも学者という職業は、できるだけ狭い専門分野の看板を掲げることで社会的な信頼を獲得しているところがあります。たぶんそんな事情からでしょう。哲学を生物科学やシステム工学の観点から見直して、根っこから作りなおすという話は、文系からも理系からも、なかなか出てきません。

筆者は、哲学と科学の基礎に関する自分の理解を整理するために、すこしまとまった文章を書きたいと思っていました。そこでこの際、右の観点でまとめることを目指して拙稿を書きはじめました。現役を卒業してしまった筆者はいまさら評判を気にすることもありません。拙稿は遠慮なくタブーを無視して、文系も理系もかまわず既存の学問の系譜からはみだしていきます。

拙稿の発想の出発点は、旧来の哲学への失望もありますが、むしろこれからの科学、特に情報科学、生物科学、脳神経科学、行動科学などの成果が、近い将来、このテーマの方向に統合されてくることへの期待です。

なぜこの世はあるのか? なぜ私はいるのか? これらは一番古い哲学のテーマですが、実は次世代の生物学の先端になるテーマだとも言える。つまり、なぜこのホモサピエンスという生物は、物質とか精神とか世界とか自我とかいうものについて、仲間どうし語りあうようなDNAの配列を持っているのか? 

生物の神秘、でしょうか? でも生物は物質でしょう?

生物科学の進展によって生物に神秘などないことは明らかになってきました。

残るは私たちホモサピエンスという脊椎動物の中枢神経系、つまり、脳の科学でしょう。

人体も脳もそれを構成する物質すべての分子構造までが明らかになってきている現在、ますます人間、そして自分、という存在の神秘を感じます。しかし物質のうちで人間の脳だけが神秘だとか、人間だけが世界の正しい姿を認識できる、などということがありうるのでしょうか?

こういう問題が、最近の科学の進展で、ごくわずかずつですが分かってきました。いわば哲学の科学(科学の哲学ではなくて)のようなものが、ほんの少しだけ見えてきたわけです。

もちろん、哲学の科学などという学問が現在あるわけではありません。筆者が今ちょっと思いついて言ってみただけです。

けれども楽観的に考えれば、これから数十年の科学の発展に支えられて、本当に、哲学の科学、のようなものが発展するかもしれません。それは哲学を変えると同時に科学自身の根っこをも変えていきます。現在の科学の根底になっている冷たい客観的物質世界を掘り返し、根をずっと深く人間個人の熱い身体感覚の中に下ろすでしょう。そこから、旧来の哲学が分裂させてしまった二つの世界、つまり物質と精神、を一つのものとしてつかみなおすことができるかもしれません。

拙稿では、それを人間集団の中での運動・感覚の共鳴と共感などをヒントにして論じていきます。筆者の興味の一つは、このような新しい科学の進展によって将来、人間どうしの不完全な相互理解を改善できる可能性です。もしそれが可能ならば、人類の心は、遠い未来のいつか、文字通りひとつになっていくのかもしれません。 

それがどのように予想できるのか、現在の私たちには、もちろんはっきり分かりません。かわいさ全開の愛のエロスも、両手を開いて「???」とにっこり笑うだけで、何も答えてくれません。それは現在、誰が予想してもきっと間違うでしょう。

それでも筆者は、それについて考えてみようと思います。





目次

プロローグ

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第一部 哲学はなぜ間違うのか 

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世界の予測機構

2010年01月28日 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

さて、「ある物」がどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物の見方。こういうような認知構造が(拙稿の見解では)生まれつき、私たち人間の内部にある。このモデルを使って、物事を認知すれば、「XがYをする」という言語表現が自然にできてくる。逆に言えば、私たちが「XがYをする」という形式の言語表現を持っているということは、私たちの内部に右のような認知構造が生まれつき備わっているということを示している。

人体が感知する物事の種々の動きとその予測によって、それらが次の場面でどう変化し、どう動いていくかを予測する仕組みが、私たちの身体の内部にある。それは仲間と共有できる世界の予測機構です。だれもが、その動きを同じように予測できるとき、その動き方の予測が世界の物事を分節化する、と(拙稿の見解では)いえます。

拝読ブログ: 情報の分節化とは何か

拝読ブログ:[無意識的欲求とノモス(人為)の制御から見た“カオス‐コスモス”]

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