人類の歴史のほとんどすべての時代、人間は部族集団の中で生きて、その中で死んでいった。生き続けなければならないのは部族集団だった。そこでは、部族が生き続けるために個人は交代する。部族にとっては、個人の誕生も死も、食事や排泄と同じような日常の生活の一部だった。そうして繰り返されるサイクルが、それぞれの人生だった。そういう意味だった人生が、現代では、個人がひとりひとり、国やマスコミが提示する大きな社会の視点から俯瞰する価値で自分の幸福をはかるものになった。そうして自分のためだけに個人のその幸福を追求することが人生、ということになっている(幸福の問題については拙稿次章と次々章で論考予定)。今はこの国でも、世界のどの先進国でも、個人の幸福に勝る価値は見当たらない。しかも私たち現代人は、その幸福を自分の努力で実現できると思い込んでいる。
こうなってしまった人生においては、死を考えるとき、すべての努力は無駄になるという耐え難い不条理に突き当たる。個人の幸福を追い求めるゲームは、それが追い求め得ると思い込んでいる限り、必ず、死という敗北によって終わる。ここに、現代人が抱えている深い虚無が潜んでいます。
(サブテーマ:死はなぜあるのか? end)
(次回からは サブテーマ:私はなぜ幸福になれないのか?)
拝読サイト:消せない虚無感
拝読サイト:人生の終り方(4)