哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

宇宙を俳句に閉じ込める end

2019年11月04日 | yyy70宇宙を俳句に閉じ込める


宇宙を俳句の中に閉じ込めてしまうことは、科学の発展にとっては危険なことであるのか?主観は、科学のためには、あくまでも客観から切り離して科学者個人の脳の奥深くに隔離して置かなければいけないのかもしれません。それのためにヘーゲルの悩みは癒すことができなくなるとしても(拙稿24章「世界の構造と起源」)。■







(70 宇宙を俳句に閉じ込める end)


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遊戯とはなっても実用を目指せず

2019年11月03日 | yyy70宇宙を俳句に閉じ込める


もしそうであるとすれば、鎖国により世界から孤立した場合、美的文化は独自性を発揮して世界最高レベルに達することはできても、科学と技術は、外国との競争のない狭い江戸社会の中に閉じ込められて、遊戯とはなっても実用を目指せず、世界文明から遅れて行ったのではないでしょうか?








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現象を懐疑して分析

2019年11月02日 | yyy70宇宙を俳句に閉じ込める


さて、主観が客観の中に溶融してしまう場合、芸術は、現代的な意味で、最先端に達する。一方、目に映るままの自然を受け入れてしまうため、現象を懐疑して分析し、冷徹な実験操作を繰り返す科学への強い情熱を持てない。








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トクヴィル

2019年11月01日 | yyy70宇宙を俳句に閉じ込める


ちなみに、主観を客観から隔離しないスピノザなどの汎神論は、個人の自律を軟化させるがゆえに民主制の毒である、という見解もあります(一八四〇年 アレクシス・ド・トクヴィル「アメリカのデモクラシー」)。この思想は、俳句を好む日本文化をも批判していることになり、日本の民主主義の存在論に関係するようなところがあっておもしろい。








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西洋哲学はスピノザを迂回

2019年10月31日 | yyy70宇宙を俳句に閉じ込める


芭蕉と同時代、オランダで、異端の哲学者スピノザは似たような思想を書いています。「人間の心を構成する観念の対象は実際に存在する延長としての身体であってそれ以外のものではない(一六七七年 バールーフ・デ・スピノザ没後出版「エチカ」)」つまり主観は体感という形の客観の一部であるから物質的客観と別のものと思う必要はない、と言っているようです。これでは物質世界を分析的に観測し操作していく科学への情熱は起こりませんね。実際、西洋哲学はスピノザを迂回して、デカルトの系譜からニュートン、ライプニッツの自然哲学そして科学へと発展していきます。








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