世界の存在感は、時代とともに変わります。人類の経験と知恵の蓄積によって世界の見え方は違ってくるのです。たとえば、中世以前の昔、睡眠中の夢で経験した出来事は、現実の世界で起こることと深い関係があると思われていました。つまり昔の人々にとって、夢は(過去、現在あるいは未来の)現実世界の一部だったのです。夢に関して、現代人の感覚は全然違います。私たちは、夢の中で起こったことは現実には何の影響も及ぼさない、と知っています。現代人は、客観的に存在していると感じられるこの物質世界が唯一の現実の世界だ、と思っています。このように人間が感じる世界の存在感は、時代の常識に影響されているのです。
この物質世界は、このようにその存在の基盤が絶対のものではないという欠点のほかにも、重大な欠点を持っています。つまり何とか世界は存在はしているらしいといってもよい、とは言えるものの、この世界はその内部に大事な物を含んでいません。
この世界は、私の感じる大事なものたちを含んでいません。この不確かな物質世界の中に存在しているかのように見える私らしいこの人体はその内部に、私たちが一番大事だと感じている感覚と感情、不安、恐れ、苦痛、神秘感、幸福、愛、誇り、思い出、恨み、後悔、欲望、意思、意図、そしてこのバラの美しさを持ってはいません。人体は、私の脳は、ただの物質です。私が確かに感じる大事な感覚、感情たち。不安、恐れ、幸福、主体性・・・それらは、物質である脳の中にあるものではない。つまり、この物質世界にあるものではないのです。では、それらは一体何者なのか? この物質世界とは違う世界があるのか? だんだん、そう思いたくなってしまいます。
こういうことは、考えても仕方がない、と割り切れれば問題はありません。考えなくても人生は無事に過ごしていけます。しかし、これが割り切れずに、なまじひっかかってしまうと、困ったことになります。あの世とか、精神世界とか、宗教とか偽科学とか、神秘感を利用するいろいろな話が作れてしまいます。もちろん、そういう考えは全部間違いです。この世に神秘など、どこにもあるはずがありません。けれども、なまじ考える人たちにとっては、ここは危ないところです。ここらへんから、今までの哲学は間違えて行ったのです。このわけの分らないところを、神秘感の落とし穴に陥らずに、なんとかうまく乗り切ることはできないでしょうか? 拙稿としては、このことについて、読者の皆さんと一緒に、この後詳しく調べていくことにしましょう。
(サブテーマ「この世はなぜあるのか?」end 長期愛読感謝)
(次からはサブテーマ「命はなぜあるのか?」ご愛読を請う)
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