近代以降の文明社会では、個人的な人生の目的が人間の行動を決めているように見えますが、これは人類の普遍的な行動様式というよりも、農耕牧畜から発生した文明社会特有の行動様式というべきでしょう。狩猟採集の時代には集団的なものであった目的という行動様式から、農耕牧畜の時代には、個人的な目的という行動様式が派生してきた、といえるようです。
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近代以降の文明社会では、個人的な人生の目的が人間の行動を決めているように見えますが、これは人類の普遍的な行動様式というよりも、農耕牧畜から発生した文明社会特有の行動様式というべきでしょう。狩猟採集の時代には集団的なものであった目的という行動様式から、農耕牧畜の時代には、個人的な目的という行動様式が派生してきた、といえるようです。
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物事が存在するということは(拙稿の見解では)このように一種の理論です。世界が存在するということも、また一種の理論である。拙稿本章ではそういう結論になります。そしてそれらが理論であるからには、そうでないかもしれないという理論もありうる。私たちは、あるときある理論が正しいと感じられるとしても、次の瞬間、別の理論が正しいような気がしてしまう。つまり、(たとえばネッカーキューブのような)ダマシ絵のように、存在は次の瞬間に不存在に変わってしまうような気がする。
ある物事が存在する。だが次の瞬間それは存在しない。この世は存在するが存在しない。論理的には矛盾した言い方です。おとぎ話に出てくる謎の予言のようです。しかし私たちは、世界の存在について、実は身体の深いところで、そう思っているのではないでしょうか?
私たちは、世界がある,ということ自体を神秘的だと感じる(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)。しかしなぜ、私たちは世界が存在するということを神秘と思うのか? それはそれが理論に過ぎないことを、私たちが実は知っているからでしょう。
(25 存在は理論なのか? end)
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それらいろいろな物事はこういう仕組みでどの人間にとっても存在している。それらが存在していることがそうしてだれにも同じように分かるから、私たちはそれの物事に関して共通の認識を持ち、共通の理論を持ち、それらを指す言葉を持ち、それらの物事をめぐって協力することができる。つまりは、そのように現実の物事を客観的に集団的に感じ取ることで私たちは互いに運動を共鳴させ、協力して社会生活を送ることができるように進化した動物である、といえます。
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私たちはそれらの物事は単にそこに存在しているから目に映るのだ、と思っています。しかしそれらが存在していると私たちが感じるということはすでに私たちの身体が内部に持つ理論によってそれらを存在させてしまっているからだ、といえます。そしてそれらの物事はそうして私たちの内部の理論によってこのように存在させられてしまったからこのように存在しているのだ、といえます。
例にあげたリンゴや電子に限らず、すべての物質現象はこのように私たち人間が互いに協力して生きるために使っている理論を伴うことによって存在している。すべての抽象概念もまた同じように私たちが互いに共通の理論として使うことで私たちがうまく社会生活をあるいは精神生活を送れるように存在している、といえます。
それらの物事の存在の理論は私たちの身体に密着し脳神経系に埋め込まれて肉体の一部となっているために、私たちはふつうそれらの理論のその働きに気が付かない。それらの理論が私たちの身体に埋め込まれていることをあまり自覚できない。そのため、ただ単に、物事がここに当然のごとく存在している、としか感じられません。そうして物事はそのままリアルな実在となる。それらの物事は、感覚器官に直接感じられるように思える目の前のこれらの現実の物質、現実の現象、現実の人間社会となっています。
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