哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

人工化された自然言語

2008年10月31日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

逆に言えば、科学は、言葉を使って正確に語れるものについてだけ語る。厳密にそうすると、科学が語れるものは物質だけになる。物質についてしか語れないと、つまらない話しかできません。科学はそういう事情で、学ぶのが面倒な割に、いつもつまらなさが伴うことになってしまった。それでもめげずに科学は、あえて、目に見える物質についてだけ語り続けた。そうして大成功しました。

科学が使う言葉は、論文に書いても査読者にとがめられないように、決まり文句の羅列になったり、数学を援用したり、専門語をテクニカルに定義したり、かなり人工化されています。しかしそれにもかかわらず、科学の言葉は、まぎれもなく自然言語です(一九八八年 アラン・フォード、F・デイヴィッド・ピート『科学における言語の役割)。物理学、化学、生物学、地学、など現代の自然科学は、どれも基本的には、自然言語を使って語られる。科学の言葉遣いは、自然言語が、使用目的にあわせて効率化されたものとみることができる。こういう言葉は、狭い領域で正確かつ迅速な情報の伝達と共有を必要とする専門家集団の内部で磨き上げられてくる。専門家以外の人々にとっては難解ですが、専門家にとってはとても分かりやすい効率的な言葉になっています。

拝読ブログ:つまらない話

拝読ブログ:ヌクレオチドの生成と生物史

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科学はなぜ正確なのか?

2008年10月30日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rembrandt_danae

人間の言葉は物事について語る。物質について語る。人間について語る。その他いろいろ、抽象的なものについても簡単に語ることができます。しかし、物質について語る方法も、人間について語る方法も、また抽象的なものについて語る方法も、言葉の作り方は、基本的には同じです。何について語る場合も、人間の言語は、(拙稿の見解では)仲間や自分の身体の動きとして語る。つまり、物事は擬人化されることで言葉になる。

物質現象について語る場合も、言語を使う限り、すべての現象は、人体の動きに模して、擬人化されてから語られる。擬人化システムを使って物質の動きを表現することによって、言語は、目に見える自然の法則を描写することに成功した。コンビニで買い物をするとき、あるいはレストランでメニューを選ぶとき、私たちは、自分たちの毎日の行動を、こうして得られた法則を利用して考える。科学は、その方法を、多少厳密に適用することで作られている。科学は、自然言語を厳密な論理で再構成して、物質について、正確に語る言葉を開発した。正確にしか語れないように言葉の使い方を限定することで、正確な科学の言葉が作られていきました。

拝読ブログ:科学の限界

拝読ブログ:2008-10-30 - d1021の日記#1225355515

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不完全な相互理解

2008年10月29日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

私たちは上手に言葉を使っている。それを使って、精妙な社会を作っています。しかし一方、言語をいくら上手に使っても、現実世界を正しく語ることは、かなりむずかしい。そればかりか、人間どうしの正しい相互理解もなかなかうまくいくものではない。楽しく言葉を交わすということと、正しく相互理解できるということとは違う。言葉を上手に使えば人と仲良くなれる。それで精妙な社会を作ることはできる。けれども、人々がいくら仲良くなれても、相互理解が深まるということはありません。言語は、人間の間に、きわめて不完全な相互理解しかもたらすことはできない。これを忘れると深い落とし穴に陥る。

拝読ブログ:迷惑メール 

拝読ブログ:偽善エコロジー 「環境生活」が地球を破壊する:武田邦彦

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遊びの副産物としての「意味」

2008年10月28日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

Rembrandt_artemisi

その過程で、(拙稿の見解では)たまたま遊びの副産物として、物質を操る運動共鳴に音節列をむすびつけることで物質に関する身体運動‐感覚受容シミュレーションが言語化された。そうして言語は物質現象を正確に表現できるようになったのでしょう。また、さらにたまたま、人間どうしの関係を操る運動共鳴に音節列や構文をむすびつけて、人称構造ができてきた。そうして、言語には、社会関係を上手に表現して社会生活に役立つような機能がでてきたのでしょう。

このように発展するとすれば、言語は身体運動の共鳴に結びつき、感情の共鳴に結びついて、仲間と、共有する世界について、ますます親密に語り合うための道具として使えるようになる。その結果、言語は、ますます人間どうしを強く結びつけられるようになった。ちなみに拙稿のこの見解に近い理論として、音韻、構文、意味内容はそれぞれ別々に進化発達して現在の言語に収束していった、という最近の言語学理論があります(二〇〇二年 レイ・ジャッケンドフ言語の基盤 脳・意味・文法・進化』)。

拝読ブログ:言語学の基本用語:「意味論と語用論」(Semantics/Pragmatics)<shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></path><lock v:ext="edit" aspectratio="t"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" alt="Comments" style="WIDTH: 12pt; HEIGHT: 12pt"><imagedata src="file:///C:DOCUME~1ADMINI~1LOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif" o:href="http://d.hatena.ne.jp/theme/4chairs-sky/comment_rd.gif"></imagedata></shape>

拝読ブログ:もんぺーるの思考錯誤: まず新聞を読むのを止めると少し生活が変わると思います。

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言語は何のツールか?

2008年10月27日 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

あえて言えば、言語は、現実の世界について正しいことを語るための道具ではありません。むしろ、人と人を結びつけるという機能を果たすために、言語は何かを語る。その何かは、実際に正しいことでもよいが、正しくなくてもかまわない。皆が正しそうだと感じることで、互いの身体が共鳴し、うまく協力できればよい。言葉が使われる場合、それが一番重要です。そのため、私たちが毎日使う言語は、正しいことも本当のように語ることができるし、正しくないことも、同じくらい本当のように語ることができる。そのように進化してきて、今ある。

もともと、人類の言語は、鳥のさえずりのように意味のない音の羅列から進化したと(拙稿の見解では)思われる。人と人が互いに影響し合い、共同でする運動共鳴を起こすことで気持ちを通い合わせる遊びのツールとして発達した。いわば、声遊び、ですね。口で作るいろいろな音の組み合わせのおもしろさとリズムと繰り返しの心地よさ。言葉が分からない赤ちゃんがする意味のない叫び。仲間が集まってする音楽や踊りの楽しさに似ている。そういう声遊びが、音節を作り、構文を作り、さらに憑依と身体運動‐感覚受容シミュレーションに連結して(拙稿の見解では)意味内容を表現するようになった。そして結果として、あるころ(たぶん、数十万年前ころ)から、今あるような言語になっていった。

拝読ブログ:楽器はシャイで恥ずかしがりやの為にある?!

拝読ブログ:キツツキ

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