哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

非言語事象

2010年08月31日 | xx3人類最大の謎

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私たちが互いにだいたいは理解できるとしている互いの内面の物事は、実は、もうすでにそれは本当の内面ではない。仲間と共有できるように加工してしまった内面です。話し手が「私の悲しみ」と言ったときにすでに、話し手は聞き手の受け取り方を想像して言葉を作っている。話し手は、本当の「私の悲しみ」というものが何かはさておいて、聞き手が理解してくれるような「私の悲しみ」を想像してそれで会話を組み立てていく。それは、はじめから会話用に加工された表現です。そのときの「私の悲しみ」という言葉で表現できるものは私の中にある本当の悲しみではない、ということですね。このことから考えると、私たちの本当の内面は言葉で言い表わせない、ということになる。確かに、言葉では言い表せないそういうものも、私たちの内面にたくさん存在すると思えます。

そういうような、目には見えなくて、しかも言葉でいうこともできないようなもの。私たちの身体がいつのまにかそれらに反応することでばくぜんと感じとれるそういう存在感は、言葉で言えるものよりも、実はずっと多いようです。私たちはふつうそれと気づかないけれども、目に見えず言葉でも言い表せないが身体の奥で感じとれる物事は、はるかに多い。むしろ目で見えたり言葉でいえたりする物事は、氷山の一角より小さい、と思えます。一方、言葉で人々と語り合ったり、書いたり読んだり、あるいは一人のときでも、言葉で考える限り、言葉でいえない物事は無視されてしまう。それらは本当に無視してよいものなのだろうか? そういうところから(拙稿の見解では)存在の謎が立ち現われてくる。

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言語が作る仮想の閉空間

2010年08月30日 | xx3人類最大の謎

言語というものはそれ自身閉じた空間を作ってしまう性質があるようです。ある言葉の架空の存在感を周りの言葉が作り出して相互に存在を支えあう。それはその場かぎりで通じ合う架空の存在感であることも多い。それでも会話中はかなりしっかりした存在感と感じられます。比喩を使ったり、たとえ話をしたり、まあそんなものだ、ということにしてしまったり、いろいろなテクニックで私たちは、よく分からない話も、お互いに、分かったことにしてしまいます。それらの架空の存在感によって、二人の会話は閉じた仮想空間を作ってしまう。それが人間の言語の特徴であり、それができるから(拙稿の見解では)、言語は便利に使われている。

言葉を使うとき、話し手と聞き手は、語られたものの実体から離れて、言葉でできた仮想の空間に入っていく。人間の脳神経系は(拙稿の見解では)、言語をこのように作り出すようにできています。言葉が持つこの作用のために、言葉の間だけでしか存在できない物事までが存在感を持ってしまいます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。話し手が自分の内面について言葉で語るとき、ふつう聞き手はなかなか話し手が言葉にして語る話し手の内面の物事を正しく共有することはむずかしい。しかし私たちの日常では、こういう会話が案外簡単に行われていてそれらはたいてい簡単に通じていくかのようです。「あなたが言っている口裂け女の怖さというのはどんなものなのか、私には全然分からない」と言い返す人はふつう少ない。それは会話というものが、多くの場合、協調を主な目的としておこなわれているからでしょう。しかし実際は、お互いの内面にあるものを感じとることは簡単ではない。

拝読ブログ:閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

拝読ブログ:世論調査に選択肢追加を

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竹の実と口裂け女

2010年08月29日 | xx3人類最大の謎

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言葉として語るものが、はっきりと仲間と共有できているとき、その言葉ははっきりと存在する物事を表します。逆にいえば、物事がはっきりと存在するということは、それをどう感じるかを、はっきりと仲間と共有できているということです。こういう場合、適切な言葉を選ぶことによって、いくらでも正確に語ることができます。目の前のリンゴについて話すときなどそうです。話し手がリンゴを見て感じることを聞き手も同じように感じている。リンゴを見て感じることを二人は共有しています。

しかしだれも見たことがない果物について話すときなどはどうか? 百年に一度くらいしか実らないといわれる竹の実について友達と話してみましょう。どんな味か? というか、どんな形なのか? だれも知らない。

「見たことないけど、竹の実、おいしいかな?」「え、竹に実がなるの?」というような会話になって、お互いの頭の中でその言葉の内容がどういうふうに存在しているのか、さっぱり分からない。しかしそれでも、友達どうしの会話は続いてしまいます。「口裂け女」の怪談を聞いて、夜道でそれに出くわしたら怖いな、と思う。実はその口裂け女とは何なのか、話し手も聞き手もさっぱり分かっていない。それでも、話はうまく伝わっていく。友達どうし楽しく会話することができる。

拝読ブログ:竹(メロンカンナ)の実

拝読ブログ:飛鳥凛

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言語で語り得るもの

2010年08月28日 | xx3人類最大の謎

言葉で言うということは、だれかに聞いてもらうことを前提としていますから、その聞き手と共有できると感じられる物事について言っていることになります。独り言を言うときも自分という聞き手に聞いてもらうことを前提に言っている、といえます。どんな場合でも、言葉をしゃべる限り、聞き手を想定している。つまり言葉で言いあらわす物事は、仲間と共有できる物事です。逆に言えば、仲間と共有できる物事しか言葉では言いあらわせない(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』)。言語というものの限界です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言い換えれば、人間が言語を使う場合、私たちは、だれもが同じように感じられる物事についてだけ正確に語ることができる。

拝読ブログ:世界の内側と外側、およびその限界について

拝読ブログ:言語の限界

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内面の存在感

2010年08月27日 | xx3人類最大の謎
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私の身体の外側の客観的世界に何かが存在している、また私の内面で何かが起こっている、そこに何かがあるように感じられる、あるいは、何かが起こっているように感じられる、そしてそれはあれだ、という感覚が存在感です。それらのうちのあるものは、だれでもそう思っていると思われる。つまりその存在感を仲間と共有できると感じられる。残りのものは仲間と共有できるとは感じられない。私たちは、そのうちで、仲間と共有できると感じられる存在感をあらわすものを、現実に存在する、と感じる。仲間と共有できない存在感をあらわすものを、自分の内面と感じる。

目の前に広がっているこの客観的物質世界は、仲間と共有できると感じられる存在感を持つものですから、現実に存在すると感じられます。人々の身体の中にあると感じられる心といわれる何かも、仲間と共有できると感じられるある程度の存在感を持つものですから、ある程度は存在すると感じます。一方、私の鼻腔内の痒さとか、いつまでも寝巻きでいるから妻に嫌われているらしいという不安とか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとかは、仲間と共有できない存在感を持つものですから、自分の内面にあると感じられる。

しかしこの内面にあると感じられる存在感には注意が必要です。実際、自分の内面にあると感じられるものも、それなりに存在する、といってよいでしょうか? ふつう私たちはそういうものも「(私の心の中に)・・・がある」と言いあらわしますね。ここは(拙稿の見解では)重要です。

拝読ブログ:最近のお気に入り、イタジャズ2品

拝読ブログ:ポケカはおかず

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