私たちが互いにだいたいは理解できるとしている互いの内面の物事は、実は、もうすでにそれは本当の内面ではない。仲間と共有できるように加工してしまった内面です。話し手が「私の悲しみ」と言ったときにすでに、話し手は聞き手の受け取り方を想像して言葉を作っている。話し手は、本当の「私の悲しみ」というものが何かはさておいて、聞き手が理解してくれるような「私の悲しみ」を想像してそれで会話を組み立てていく。それは、はじめから会話用に加工された表現です。そのときの「私の悲しみ」という言葉で表現できるものは私の中にある本当の悲しみではない、ということですね。このことから考えると、私たちの本当の内面は言葉で言い表わせない、ということになる。確かに、言葉では言い表せないそういうものも、私たちの内面にたくさん存在すると思えます。
そういうような、目には見えなくて、しかも言葉でいうこともできないようなもの。私たちの身体がいつのまにかそれらに反応することでばくぜんと感じとれるそういう存在感は、言葉で言えるものよりも、実はずっと多いようです。私たちはふつうそれと気づかないけれども、目に見えず言葉でも言い表せないが身体の奥で感じとれる物事は、はるかに多い。むしろ目で見えたり言葉でいえたりする物事は、氷山の一角より小さい、と思えます。一方、言葉で人々と語り合ったり、書いたり読んだり、あるいは一人のときでも、言葉で考える限り、言葉でいえない物事は無視されてしまう。それらは本当に無視してよいものなのだろうか? そういうところから(拙稿の見解では)存在の謎が立ち現われてくる。
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拝読ブログ:コーヒーの味、香り、言葉で表現できる??☆