哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

現代科学が成功した秘訣

2007年12月31日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_venus3 宗教の経典の非合理性を指摘した者は破門されたり、火あぶりになったりする。逆に、科学の学説が間違っているところを見つければ、それは指摘した科学者の手柄になる。だから、世界中の科学者が競って、互いの科学の怪しいところを実験で暴こうとしている。単なる言い伝えを排除し、間違った理論を暴きだして実験で反証する。こういう仕事が科学だ、ということになっています。

ヨーロッパでは、ルネッサンスの時代から、こういう科学の伝統が積み重ねられてきた。百数十年ほど前から、欧米を中心に、しっかりしたアカデミー、大学、学会など科学者のコミュニティが形成されてきました。そこで論文誌を中心に、実験と観察のデータを徹底的に検証された理論として、近代科学から現代科学が発展してきました。そういうものはかなりの信頼性があり、存在感があります。

西洋の近代科学から発展した現代科学がここまで成功した秘訣は、何でしょうか? 筆者の考えでは、それは観察の客観性を徹底したこと。つまり人間どうしの相互理解を基礎にすえた上で、観察から主観を取り除き、だれもが理解できる客観性だけを残し、相互理解に伴うあいまいさを徹底的に排除していったことにあります。キリスト教をスポンサーとする中世の神学は厳密な論理学で武装していました。その隙を突いて人々を説得していかなくてはならなかった西洋科学は、論理に対して論理で対抗する。つまり、客観性を徹底的に磨き上げ、理論からあいまいさを排除していったわけですね。

人間が相互理解できるものから、あいまいなものを排除していくとどうなるか? まず、感情のようなものは、真っ先に捨てる。義理も人情も捨てて、非情に徹します。それから、大体の感じとか、すごいとか、かわいいとか、クールとかウェットとか、空気を読むとか、フィーリングだけの話も無し。だれが測っても同じ数値になるものだけを議論の対象にします。つまり、客観的に測定可能なものだけにするのです。構成物は徹底的に要素に還元する。原子、電子、素粒子までに分解します。そうすると結局は、時間と空間の中での要素粒子の位置、質量、運動量、エネルギー、電荷、という数量で表現できるものだけが存在する、というところに行き着く。そういうものを書き表すのに一番あいまいさが少ない言語、つまり数学、で表現するわけです。それも、できる限りシンプルな方程式で書き表す。これが現代科学です。

拝読サイト:年の瀬のスターバックスにて

拝読サイト:『有終の美ー大晦日』ー『英語でことわざシリーズ』

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科学の圧倒的存在感

2007年12月30日 | x4それでも科学は存在するのか

それでも、それはそれとして、仮にアプリオリに物質世界の存在を認めてしまうことにすれば、あとは問題なし。科学の言うとおり。拙稿も科学が語ることに全面賛成です。現代科学によって、世界は単純明快に説明できる。 

科学は、物質世界を説明する。この目に見える物質世界、宇宙や生物は、なぜこうなっているのか? なぜ、こう動くのか? 世界の創生を教えてくれる神話や経典の現代版と言えます。だが、現代では科学は、宗教の神話や経典に比べて、矛盾なく論理的であり、かつ人間のすべての経験との整合性がある。科学が分かる人は、宇宙も生物も人工物もすべてを同じ法則で説明できる現代科学の整合性と信頼性に感嘆する。科学をよく知らない人でも、現代人の衣食住すべてが現代科学技術によって支えられている事実を見ればその威力がすぐ分かる。特に最近の医療技術は、病気治療ばかりでなく、延命、生体機能回復に劇的な効果を発揮する。さらに身体能力向上、生殖制御、さらに近い将来は胎児乳幼児の身体改造、特に知的能力向上も可能になりそうなことから、個人や家族の身体への物質的操作を介して、科学はすべての人の人生に深くかかわってくる。私たち現代人にとっては、このような現代科学が圧倒的な現実感と存在感を持って存在していることは間違いない、と感じられます。

神話や経典は、結局は、言い伝えです。科学も、本を読んだり、先生の講義を聴いたりするだけでは、学生にとっては神話、経典と同じ。単なる言い伝えに過ぎない。科学は、神話、経典に比べて、直感では分かりにくい概念や専門用語や数式が出てきたりして、まじめに勉強するのは面倒なものです。

しかし、科学は、対象が物質ですから、自分でやろうと思えば、だれでも実験、観察で確かめることができる。まあ、最近の科学は高価な装置が必要なものが多いが、とにかく、どの分野の科学も、単に伝説や言い伝えのようにたとえ話や、本と講義だけで伝わっているのではない。世界中の大学や研究所で、毎日のように実験され観察されることで確認されて、継承されている。

拝読サイト:医学的神話:信じられきた情報は正しいものか?

拝読サイト:科学の発展(1)

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科学は虚無

2007年12月29日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_venus この筆者は、科学に肩入れしているのか?

まあ、理系出身ですから科学に親しみはありますが、特に科学の強い味方というわけでもありませんね。仕事柄、広く理系の世界を見てきた経験もあって、現代科学の実情はおおむね分かります。その点、科学に対して、こむずかしくて不可解で気味が悪いという先入観は持ってはいない。科学や科学者に対しての不信感、反感とか不安とかも持っていません。科学者の気持ちもよく分かります。科学者たちを特に賢く気高い人たちだとも思っていませんが、また特に変わった人たちだとも思っていません。長年、日本や欧米の多くの科学者とつきあってきた筆者の経験から言うと、彼らは、どちらかというと気がよくて素朴で勤勉な、ふつうの人たちです。

しかし、拙稿のテーマを語るに当たって、科学や科学者の実情をいくら知っていても、あまり役には立たない。科学は科学そのものを説明できない。筆者に言わせれば、自分自身が存在することの根拠を説明できない現代の科学は、基礎の基礎ができていない。いわば、虚無の上に立っている(と拙稿では考えています:第3章参照)。

科学の基礎、つまり科学のよって立つ所に関して拙稿の見解は、実は、大多数の科学者たちの見解とは違います。むしろ正反対かもしれない。科学者は、物質世界(自然界)の存在をすべての科学の基礎と考えている(ナチュラリズムという思想)。一方、拙稿の見解では、物質世界の存在は科学の基礎になっていない。物質世界は、完全にもっともらしく存在しているように見えることから存在していると感じられるだけだ、と考えます。拙稿の見解によれば、物質世界が実際に存在しているかいないかは問題ではない。そういうことは人間にとって意味がない。だれもが直観で確かに存在感があると感じられるから存在していることにしているだけです。科学の基礎は、そんなあやふやな物質世界の存在の上に築くわけにはいかない。

拝読サイト:メタのメモ

拝読サイト:何が怖くて7:迷子の心得

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確かな存在と不確かな存在

2007年12月28日 | x4それでも科学は存在するのか

物質ではないそれらはなぜあるのか? それは、そういうものがあるという錯覚を起こす仕組みが、人間の脳の中にあるからなのではないだろうか?

多くの人が持っているふつうの直感と現代科学との矛盾を調べていくと、拙稿のような議論になってしまいました。どうしてそうなってしまうのかを前章まで、いろいろな観点から書いてきました。分かってくれる人も、かなりいるだろうと思います。「私も実は、そうじゃないかと思っていた」と言ってくれる読者もいるでしょう。

結局、物質として目で見えるものしかこの世界には存在しない、という言い方を拙稿は好んで使う。それは次のような考え方から来ています。

ものごとは、自分の目だけに見えるのではなく、だれの目にも見えなければ、間違いなく存在するとは思えない。逆に、いつでもだれの目にも見えるならば、それは確かに存在する、と感じられる。また、今ここで目に見えなくても、それが見えるところに行けばだれもが見ることができる場合も、それは存在するといえる。また、それがあるとしなければ理解できない現象がいつでもだれにでも観察できるならば、それは存在するといってよい。だから、だれの目にも見えるものたちから理論的に存在を証明できるものは、それも存在すると感じられます。そういう存在について、人々と話が通じれば、もうそれは間違いなく存在するとしか思えません。

そういうことで、こういう条件を満たすすべての物質、たとえば原子、電子、電波、素粒子、小惑星イトカワ、私の一円玉、近所のおばさん、日本の総理大臣、南極大陸の最高峰、などは確かに存在する、と思える。つまり、私たちがいま自分の目の前に見ている自然の物質と、私自身は今目の前に見ていなくともだれもが認めている遠くの物質たち、それに加えて、科学が描く理論的な宇宙の物質たちは、間違いなく存在することになる。

結局拙稿では、科学が存在するとしているものは確かに存在すると言い、一方、宗教や哲学や法律や、ふつうの日常会話では存在するとされているけれども目には見えない多くの重要なものたち、たとえば命や心や意思や生死や自我や私の借金は、それらがはっきりと存在しているとは言いがたい、と言っているわけです。

拝読サイト:冬休みにやっと入った初日ゎ・・・

拝読サイト:総理大臣

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ロボットの意思?

2007年12月27日 | x4それでも科学は存在するのか

Cranach_princes 人体という物質が、ふつうの物質であることは明らかになっている。クラゲの身体も人間の身体も、物質としては高性能のコンピュータが搭載されている精巧なロボットと違いはない。構造がほんの少し違うだけだ。では、私の意思というものは何なのか?

私の意思と私の身体の動きとの関係は、科学では説明できない。私が身体を動かそうと思うと、なぜこの身体が動くのか? そもそもロボットが動くとき、彼または彼女またはそれは、自分の身体を動かそうと思っているのかいないのか? 「ワタシハワタシノ身体ヲ動カソウト思ッテイマス」とロボットがしゃべったとしても、彼または彼女またはそれは、本当にそう思っているのかいないのか? 

そういうことは、科学がいくら発展しても説明できるものではない。むしろ科学が進むほど、物質としての人体の構造はますます明らかになり、それと同時に、人間が内面で感じる意思や感情や欲望や価値、それらはますます意味不明になってくる。ところが、明らかにいつの時代でも、それらは、私たちにとってこの世で最も大事なものです。それらを使いこなして人間は社会を作り、それらを目的にして毎日の人生を生きている。それらがなくては、人間は一日も生きられません。

私たちの身体の奥深い、目に見えない内面にあると感じられるそれらが、なぜあるのか? 逆に言えば、それらと関係なく客観的に存在するかのように見えるこの自然と呼ばれる、科学が対象とする物質世界。これはなぜあるのか? 同じ『ある』という言葉で認められているこの二者は、全然違うものなのか? お互いにまったく関係がないのか?それとも繋がっているものなのか?

それを調べるために、筆者は拙稿を書いてきました。

拝読サイト:ブレイン・マシン・インターフェース最前線(1)

拝読サイト:狂ったふり

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