哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

底なしの虚無

2006年12月15日 | 1哲学はなぜ間違うのか

人間が使う言葉と、目の前に見えて手で触れる客観的な物質世界。この二つの関係は哲学を発達させて言葉を精密に磨き上げれば磨き上げるほど、また科学を発達させて物質世界の法則を精密に明らかにすればするほど、だんだんと分裂していくものなのです。現代哲学はこの問題の深刻さに気づいてはいますが、どちらに進めば脱出できるのか、見当が付かないようです。主観的に感じる内的世界も、結局は科学的アプローチで解明できるし、そうするしかない(一九六〇年 W・V・O・クワイン『言葉と対象』)とか、いや現代の科学的思考というものこそ、人間の感性を分断し文明を底なしの虚無に落し入れる元凶だ(一九八六年 A・J・マント『哲学的多元論の勝利?』)とか、意見は離れるばかりです。

本当に文明人のほうが未開人よりも、この世界を分かっているのでしょうか?

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哲学はなぜ間違うのか?

2006年12月14日 | 1哲学はなぜ間違うのか

脳のこういう仕組みも原始時代には人々の団結に役立って便利でよいことだった。天狗を恐れて一族が団結できれば、それは生存繁殖に有利だったのです。

しかし、これは科学の時代の真理の探究には向かない脳の機構でしょう。科学者たちに向かって、いつまでも天狗を信じさせようとする哲学を主張するのも、いかがなものでしょうか。ここにも哲学が見捨てられていく危険がでてくるわけです。

これらの危険に気づかないまま、命とか心とか、自分とか社会とか、愛とか死とか、感情に訴える神秘的で深遠に思える人生上の問題を、言葉だけを使って語りつくそうとするから、哲学は間違えていくのです。

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座敷わらしとは何か?

2006年12月13日 | 1哲学はなぜ間違うのか

また人間は、言葉を使って、目に見える物質世界を表現すると同時に、目に見えない主観的な、私たち自身の内部の感覚や感情的なもの、神秘的なもの、想像、願望など、つまり自分が感じるすべてのことを表現しようとします。

そのこと自体、進化で身についた人間の性癖です。自分が感じることはできるだけ多く、仲間と共有することが生存繁殖に有利だからです。自分が感じる大事なものを言葉でしゃべれば、仲間はちゃんと感じ取ってくれる、と思いたい。そう思えれば、この仲間とどこまでも一緒に行こう、という気になれます。特に、目に見えないもののほうが、人間にとっては大事なものと感じられる。目に見えなくても言葉で言えば、そういうものだって、仲間どうし分かり合えるはずだ。自分の中の奥のほうから湧き出てくる感覚や感情、神秘への恐れ、そういうものを何とか仲間に伝えたい。分かり合いたい。言葉で語りたい。その気持ちによって言葉が工夫され、表情、身振り、声音が工夫されて、ついには気持ちが通じると思えるようになる。

あなたと私の間で、本当に気持ちが共有されているのか? そこまでは、だれにも分かりません。分かり合えるような気がする、というだけです。でも、毎日、うまく気持ちが通じている、としか思えない。皆がそう思っていれば、そうなのです。

目に見えないのに人間のだれもが感じることは、人間にとって重要だからそれを感じるのです。そういうものは物質としての実体はないのかもしれない。それでも脳は粘土状の充填剤のように自由自在な形の錯覚を作り出せるので、実体がない存在感をいくらでも作り出せるのです。その上、人間は他人が感じている錯覚を敏感に共感する能力を持っていますから、実体のない錯覚の存在感を共感できてしまうのです。そうすると錯覚の存在感の共感にもとづいて、それに対応する適当な言葉が作られてしまうわけです。座敷わらしとか、天狗とか、人魚とか、とか、悪魔とか、霊魂とかも、それです。

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哲学の危険

2006年12月12日 | 1哲学はなぜ間違うのか

原始時代はこれでよかった。

言葉は、人間が仲間と集団をつくって、この世界の法則を利用して生き延びるために役立ったのです。しかし、こうして進化してできた言葉という粗雑な道具を、そのまま真理の探究に使おうとすると無理が起きます。人間の言葉は、真理の探究など、そんな高尚なことに使えるようにはできていません。なんとなく気持ちが通じ合うような気になって、仲良く協力する気持ちになれればそれでよいのです。そういう働きができるように、言葉は進化して来たに違いありません。原始時代の生活に有利になるような機能を持った言葉だけが、私たちの身についているはずです。素朴な原始生活に使えること以上の余計な機能は持たないほうが、原始時代を生き抜くには役立ったはずです。私たち人類は、ついこの間まで、たった百世代くらい前、数千年前まで、その前の数十万年にわたってあまり変わらない原始生活を送っていたのです。動物の身体は鳥の翼のように、の光のように、その生活環境の中で有利な形態と機能に進化してくる。原始人のその生活にぴったり役立つように洗練された脳の機構が、私たち現代人にまで継承された言葉の土台を作っているのです。人間の言葉は、哲学や論争をするために発達したものではありません。仲間と集団で狩猟採集生活を能率的にこなすための道具として発達したものです。このことを知らずに言葉を振り回すことは、とても危ない。

そこに、哲学の危険がでてくるのです。

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存在感を集団で共有

2006年12月11日 | 1哲学はなぜ間違うのか

「どうもどうも」

「すみません。すみません」

「まあまあ、そういうことで」

「ウッソー? ほんと?」

「じゃあ、よろしく」

というようにわけの分からない言語表現を頻繁に使う民族が、世界一の経済社会を作っていたりするのです。

人間は、大いに錯覚を起こすことによって世界を滑らかに分かりやすくすばやく認知し、それに存在感を感じ、その錯覚による存在感を集団で共有することによって、お互いにうまく付き合っていけるようにできている。そういう便宜のために、人間の脳は錯覚による存在感をいつも簡単に作り出せるのです。

人間の脳は、壊れた陶器を補修する粘土状の充填剤のように、錯覚を作り出してギャップを埋め、断片を滑らかにつないで物事を分かりやすい形で存在させているのです。しかも陶器の正しい形など知ろうともせずに、どこかで見知った形、あるいは作りやすい形にさっさとつなぎ合わせて一丁あがり、として仕事を終えてしまうようです。

それで、人間どうしは、「ね、ぼくが言いたいこと分かるでしょう?」、「うん。分かる。分かる」という具合にうまく分かり合えるのです。つまり、「うん。分かる。分かる」とうなずくことが、分かるということなのです。

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