哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

神秘感→思考停止

2008年01月31日 | x5死はなぜあるのか

確かに私たちは、自分の身体というものがなくなる、ということに恐怖を伴った強い神秘感を感じます。自分がなくなったら自分が感じていることはどうなるのか。今大事にしている人や物たちをどうにもできなくなる。それらがどうなってしまうのか、まったく分からなくなる。毎日の生活の土台になっている自分というものの存在感が揺らぐ。いつも頼りにしている自分の現実感がぐらぐらになってしまいますね。そういうことが不安あるいは恐怖を伴って強い神秘感を引き起こす。人間は、未知の不可解なものに対して神秘感を持つようにできている。そのような私たち人間にとって、自分の死は、最大の神秘感をもたらすものです。

しかし(拙稿の見解では)神秘感というものは、たいてい、あやしいところがある。実生活に役に立つ効果も持っているが、一方ではいかがわしい効果も持っている。神秘感は、もともと、考えても分からないものについて人間の思考を停止させ、そういうものは警戒して近づかないようにする仕組みです。脳のこの仕組みは、危険を回避し、同時に無駄な悩みを保留にして毎日の実際的な問題に取り組ませるという有益な効果を持っている。その効果が人間の生存に有益だったから人類に備わった感覚です。しかし、人間は神秘的なものについて語り合うこともする。そうするうちに変な結論に導かれてしまうことがあります。仲間がみんな同じ神秘感を共有する場合が一番あぶない。そういうときにつくられる結論は間違いが多いのですね。そうだとすれば、もしかすると、今話題にしている死に関する神秘感も、あやしいものかもしれない。私たちを間違った結論に導いているかもしれない。まあ、ここでは、そう疑って、話を進めてみましょう。

拝読サイト:カツ丼

拝読サイト:裁判員制度考

コメント

死の起源

2008年01月30日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_nymphes_satyres_4 要約すれば、私たちが、他人の身体が消滅するイメージから連想して自分の身体が消滅することを想像するときに、命と心を感じる錯覚の(集団的共有による)存在感覚に与えられる混乱を恐怖に結びつける学習によって、死の恐怖は作られている。この学習は、他人の身体が消滅するイメージを想像することから始まる。子供がこのような想像ができるようになるのは幼稚園から小学校低学年くらいの時期です。この時期に、子供は大人や年長の兄弟仲間などの言動を見聞きすることで死の観念を学習します。最近の子供は、リアルな人との会話ばかりでなく、テレビやゲームやマンガなどバーチャルなメディアからも大きな影響を受けていそうですね。昔から子供は、骸骨や幽霊など、死に関するイメージに極めて感受性が強い。成長過程でこの学習がうまくいくように、人間の脳は進化したのでしょう。それは、仲間どうしの集団的共感で死の恐怖の存在感を形成し、脳の感情回路に定着させる仕組みです。人類の進化の過程で、この死の恐怖の学習が、自分の身体を守ることにつながり、それが種族の繁殖に有利に働いたからと推測できます。

死の恐怖は、人類が繁殖するためには、よくできた実用的な錯覚であるわけです。技術や社会関係を発達させ、安全で安定した生活が送れるような知識や習慣を蓄積するために役立ったはずです。抽象的な想像が恐怖という強い感情を引き起こすという点で、錯覚にもとづいた理論の集団的共有が身体感覚に結合していく、人間という動物に典型的な現象といえるでしょう。

拝読サイト:もの

拝読サイト:私たちは繁殖している

コメント

死の恐怖と科学

2008年01月29日 | x5死はなぜあるのか

科学で説明される生物の死と、私たちが自分や知り合いに起こり得ることとして考えるときの死というものとは違う。全然違うといってよい。脳死や延命医療や人工生殖技術など生命倫理の問題が起こるたびにテレビや新聞では、医師や科学者が登場して、医学や生物学による生命と死の定義を繰り返し説明するが、それは、人間が感じる命、心、自分というものが失われる恐怖とは、むしろ関係がない。私たち人間は、生物学による解釈で命を感じるのではない。生物学を知らない幼稚園児でも命の意味をはっきり知っている。人間は、命の存在を、生きて動いているそのものを見て直観で感じる。理論や知識によって知るのではありません。一方、科学の説明によって表現される物質世界には、生物という物質現象はあるが、人間が直観で感じるような命、というものは存在していない。したがって物質世界には、生も死もない。生や死という錯覚を直感で感じる仕組みが人間の脳の中にある、というだけのことになります。

死の恐怖は、自分の身体がなくなるシミュレーションを、子供のころから周りの人々の態度から感じ取って身につけることによって作られる。それを扁桃体の生得的な恐怖回路に連結することで、恐怖感情が形成される。科学者も哲学者も一般の人も、ほとんどの人が誤解しているようですが、死の恐怖は客観的な物質世界を感知する経験だけからもたらされるものではない。人間以外の動物は死を感じない。したがって、動物は、痛いのは嫌がるが死の恐怖というものは感じない。死の恐怖は、人間の脳に特有な集団的共感により作られる錯覚の共有によるものです。この錯覚に関する恐怖感情の共鳴形成の仕組みが、私たちの忌み嫌いや、怖いもの見たさなど、死にまつわる特別の思いの正体というべきでしょう。したがって、死は客観的な経験とは、むしろ関係がない。死の恐怖は、科学とは無関係だというべきでしょう。将来、拙稿で述べている予想のように、科学が哲学と融合できるときがくれば違うでしょうが。

拝読サイト:『悪夢としての長寿』

拝読サイト:「スパゲッティ症候群」

コメント

小学生は死を学習する

2008年01月28日 | x5死はなぜあるのか

Poussin_jupiter 死は自分の身体が消えることですが、それがどういうことなのか、私たち当人には分からない。実はだれにも分からない。私たちはどうしても、消えていく自分自身の存在感をはっきりとは想像できません。それで危機感は最高に高まり、強い恐怖になっていきます。

それら恐怖の基礎の上に、過去に自分が危機に瀕したときに経験した苦痛や恐怖の感情、あるいは他人の死とそれにいたる危機を自分の身に引き換えて感じる恐怖感、を学習する。それらの記憶が恐怖の感情を起こす脳内器官である扁桃体の神経活動に連絡する。この連結によって死の恐怖は強化され、連想によっていつでも活性化される。この学習は、幼稚園児くらいから小学生のころを通じて、死について語る大人や仲間の表情や言葉の響きを通して感情が共有されることで、しっかりと定着していきます。

死の学習が脳に定着すると、身体の反射的なショックや恐怖感覚を、逆に死を連想することで、増幅するようになる。たとえば、猛獣の襲撃あるいは高所からの転落、爆発的な大音響、などに恐怖を感じる反射反応は、古い時代にできた哺乳動物に共通の神経回路の働きです。一般に哺乳動物では、猛獣の襲撃などが最も強い恐怖反応を引き起こす。動物の場合、この恐怖感情は死の観念とは関係がない。ところが人間の場合は、これら身体の具体的な危険より以上に抽象的な死の観念に恐怖を感じる。身体の具体的な危険への恐怖反応は死の学習以前からあるにもかかわらず、死に至る故に怖い、と感じるようになる。「死ぬほど怖かった」という常套句があるように、私たちの常識では、実際の危険感覚から来る恐怖よりも抽象的な死の恐怖のほうが強いことになっていますね。動物と違って人間の場合だけ、死という抽象観念と恐怖感情とを強く連結する神経機構が学習によって作られているからです。

拝読サイト:宗教教育の是非 ~命の重みを感じ取るために~

拝読サイト:家族と社会を考える 子どもの生活、意識を探る

コメント

客観的世界モデルの霍乱

2008年01月27日 | x5死はなぜあるのか

私たちがふつうに感じている世界の中では、命を持ち、心を持っている私というものがその中心にあって、それがこの現実といわれる物質世界の中を動いていく。今日も明日も、私はこうしたりああしたりして、この世界の中を動いていこうと思う。私たちはいつも、そう思っています。世界と自分の存在感がいつも感じられることへの信頼感から、そう思っているわけです。

ところが一方では、この、私たちがいつも感じている、世界と自分についてのこういう感じ方が、死の恐怖をもたらす原因になっています。つまり、死んでしまえばこの世界の中での明日の自分というものを想像できなくなる。そのとき私の心はどうなってしまうのだろうか? そういう存在感の混乱が、死の恐怖の芯を作っている。自分の死を想像することは、客観的物質世界の中にいつも自分の過去と未来を見ている脳内の客観的世界モデルを撹乱する。

私たち人間は、いつも客観的世界モデルを使って明日の世界を予想し、その中にある自分の姿と自分の行動を予想して生活しています。それなのに、明日の世界を見ることができない。明日の世界では自分が消えてしまう。消えてどうなってしまうか分からない、と感じると、その予想用世界モデルは混乱し、今から先が予想できなくなる。こうなると、現在の自分の存在感も混乱します。そこから、すべての物事の存在感が混乱してくる。何をどう考えていいか分からなくなる。そういう場合、人間は強い困惑感と危機感を感じます。

拝読サイト:ライフスライス:それは過去と未来、世界と自分を並べるプロジェクト

拝読サイト:今週の自分と明日の自分。

コメント