哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

力のイメージ

2007年08月31日 | x欲望はなぜあるのか

Almatademaancientegypt 人間の脳は生まれつき、このような力を直感で感じ取る機能を備えている。物体の運動する様子を見ているだけで、自動的に、脳のどこかの神経回路がその物体に働く力のイメージを検知して、その存在感を感じる。物が運動を始めるとき、その原因になる現象が近くで起こっている、と感じる。目に見えなくても、その原因はある、存在する。それが力とか、欲望とか、意思です。コンピュータにやらせれば、位置の三次元ベクトルの時間変化を二階微分して、質量と力の大きさと方向を三次元ベクトルとして正確に算出できる。しかし人間の直感による推算のほうが速かったりします。

人間は、物が動くイメージを脳に浮かべると、それに対応して瞬時に筋肉が必要な速度で収縮を開始する。これを自分では衝動と感じる。考えたとおり動くのではなくて、動くことが考えることになっている。その仕組みで人間は瞬時に行動できる。力学法則を習っていない子供のほうが、運動方程式を使って計算するサッカー用ロボットよりも、サッカーが上手なのです。

物が動くイメージが現れれば、すぐに脳の運動形成回路は必要な筋肉収縮の信号を作り出す。直接筋肉にまで送り出されないでまだ脳の中に留まっている運動信号列を(拙稿の用語法では)仮想運動といいます。仮想運動は、もう一度シミュレーションで世界の反応を確認した後、筋肉に指令として送られる。これら一連の神経活動を思い出した人間は「自分が力を出した」と思うわけです。

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ニュートンが感じた『力』

2007年08月30日 | x欲望はなぜあるのか

人間の脳は、物体の運動を感知すると、その運動を引き起こす力を直感的に感じ取るようにできている。脳には(たぶん大脳皮質の運動野あたりに)その働きをする神経回路があって、運動の視覚情報から自動的にその原因になる力を推算しています。リンゴが地面に向かって動き始める。それは何かがリンゴに力を加えるからに違いない、と直感で感じる。古典力学の『』概念はそこから出てきたのでしょう。頭の固い科学者は、力はニュートンの運動方程式で定義される物理量だと思っていますが、ニュートン自身が感じた感覚は違います。人間が「私は思いっきり力を出したので、とても疲れた」というときの力の意味にとても近い。ニュートン力学がなかった時代のニュートンは、物体を動かす原因となっているはずの何か、たとえば人間に働く意思とか欲望にあたるもの、それを、『力』と呼んだのです。今でも力学を知らないふつうの人ほど、ニュートンが感じた『力』に近い力の概念を持っている。

それは、物体を動かす原因になる何か、というものです。物体は、何もされないときは、静止している。物体が動き出したときは、何かが物体に働き始めたのです。その何かが、力、です。

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ニュートンとリンゴ

2007年08月29日 | x欲望はなぜあるのか

Almatademasappho 欲望、目的、自由意思、計画、などによって人間の行動が決められているという理論モデルは、私たち人間がそう思い込んでいるだけでしょう。動物にも人間にも欲望というものは存在しない、というほうが簡単ではないでしょうか。

私たちは、身体の自動的な仕組みにしたがっていつのまにか身体が動くことに気づいたとき、自分の内部の衝動が身体を動かしたと感じる。その衝動がどこから来たか、本人には分かりません。なぜか身体が動いていく。ふつう、それがあたりまえです。それがなぜか、と考えるときだけ、それを衝動と感じる。それがどこから来るか考えるとき、それを自分の内部に隠されている欲望が出てきた、と感じるのです。

  

ある少女が柿の木に登って柿をもぎ取って食べているとします。(拙稿の見解によれば)彼女は赤い柿を見ているうちに、過去に習熟した運動を思い出して身体がそれを繰り返したわけです。空腹なとき赤い柿を見たらもぎ取って食べる、という一連の運動が、繰り返すべきものとしてその少女の脳に登録されていたからです。

 しかし、ふつう人間が人間の行動を見るときは、こういう言い方にはなりません。「彼女は何かを食べたい、という欲望を感じて、それを満たすために柿を食べることを思いつき、その目的を満たすために木に登ることを計画して、その目的のために手足を動かして、木登りを実行した」となります。人間の脳は、こういう考え方のほうが理解しやすいし、記憶しやすいのです。これは、運動する人間を見て「欲望→計画→行動」というモデルが脳に呼び出されるからです。

 リンゴが枝から離れるのを見て、ニュートンが「あ、このリンゴはこれから下に向かって加速していくだろうな」と感じたのと同じです。リンゴは低いほうへ行きたいという欲望を持ったから地面に向かった。人間の脳はそう感じるようにできています。しかしこれは一種の錯覚です。ふつう、人間はこれが錯覚だとは気づきません。リンゴが枝から離れれば、下に向かって加速しながら移動するのは、あたりまえですから、なんとも思いませんね。ニュートンだけが「あれ、まてよ。リンゴは何かの作用を受けて加速しているとは考えられないか?」と思ったのでしょう。

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言語「XはYをする」

2007年08月28日 | x欲望はなぜあるのか

人間の言葉では、「A君はレストランに行く」という形のセンテンスで、人の行動を言い表す。自分の行動を言い表すときにも、「私はレストランに行く」と言う。「A君」が「私」に置き換わっただけで(動詞が人称変化する言語もあるが)構造は同じ形式です。人間の言葉は基本的に、「XがYをする」という形です。Xは主語といわれますが、要するに「行為をするもの」です。Y(Yをする)は動詞といわれ行為することです。どこの国の言葉でも,動詞があって、それが言語表現の中心になっています。自然言語がこういう構造をしているということは、人間の脳が世界をこういうふうに捉えるようにできている、ということでしょう。

私たちが言葉を話す場合、まず話題になるものXに注目して、Xは「何かをする」と考え、「XはYをする」という形で言う。つまり、主語になるようなものXは、「Yをしたくて、Yをする」とみなすのです。XはYをしたいという欲望あるいは意思を持ってYをする。人間は世界の中にあるすべてのものたち、認識対象、をこう捉えているわけです。

人間やそれ以外のもろもろのものが欲望や意思によって行動する、という考え方は、(拙稿の見解では)こういう自然言語の形に引っ張られて作られています。そもそも、行動とか、行為とかいう語は、ある主体があって、それが欲望や意思をもって身体を動かす、という図式を前提にして使われる言葉です。それが学問として、哲学で理論化され、「行為」と「行為者」などと呼ばれ、法律、文学、心理学にも使われ、ふつうの人々の常識になっている。人間が仲間の人間の行動を解釈するときに使うと便利な重要な錯覚のひとつです。

でも、こういうものの見方は、物質の法則からは導けません。物質は物質の法則だけで動いている。「Xという物質はYをしたくてYをする」と言う記述は、科学をいくら研究しても導けない。それなのに、私たち人間は、「XはYをする」という記述しかできない言語を使って毎日、暮らしているのです。厳密な記述を求める物理学などでは、しかたないので、自然言語の使用はやめ、数学的に定義された特殊な言葉使いと方程式と数値を使って、物質世界を記述しています。

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「Aが起こるとBが起こる」

2007年08月26日 | x欲望はなぜあるのか

まあ、人間も、くしゃみをしてから、ああ寒い、暖まりたい、といつのまにか身体が動いていくことを、衝動と感じるわけです。いつのまにか身体を縮め震える運動をしてしまってから、自分でその身体の震える運動を感じて、「ああ寒い、暖まりたい」と人間は思ったりする。それから、事後的に「あの時、私は寒さを感じて、くしゃみをしたくなり、震えたくなり、暖まりたいという欲望を持った」という記憶を作るわけです。

欲望を軸にして人間の行動を記述していく、という小説に使われるような記述方法は、もともとは他人の行動を予想するために発達した脳の機能でしょう。「欲望」というものを持ってそれを実現していく、という人間の理論モデルは分かりやすい。「Aが起こるとBが起こる」という形で、人間は経験を学習し、記憶していく。このモデルを使って他人の行動を記憶して、その後の行動を予想すると役に立つ。「あの人はこうしたいと欲望してこうしたのだ。だから今度は、こうしたいと欲望してこうするはずだ」という形で他人の行動を記憶し、予想する。これを自分自身の行動の理解にも応用すると、自分の「欲望」という概念ができあがるわけです。

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